高校公民Blog

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歴史学の意味 1 サルトルの穴

2007-02-22 21:20:50 | 社会科学・哲学

一喜一憂せよ

 常識的な言説はもちろんこの逆である。細々したことで一々一喜一憂するなというのである。しかし、天才サルトルは多分そうはいわない。そのかわり同じことを言うために
「一喜一憂せよ」と言うのである。あるいは「一喜一憂したこともねえやつにどうして「一喜一憂するな」ということがわかるんでえ」と言うのである。
「一喜一憂するな」という言説はまさに、一喜一憂した真下の意識が痛切に理解するのである。あるいはこうもいえよう。「一喜一憂した」まさにその意識が紡ぎ出すのが、「一喜一憂するな」という言説なのだ、と。意識のこうした天の邪鬼な一面を鋭く描くのがサルトルのおもしろいところである。ちなみに、サルトルは一喜一憂のことは一つも書いていない。

長い過去のトンネルを抜けるとそこには未来があった

 長いトンネルを抜けるとそこが雪国なのは、川端康成である。サルトルはこれをもじって言うと過去をくぐっていくとそこに未来が顔を出すというとても奇妙な事実を私たちにつきつけるのである。サルトルは過去は現在に存在するという現象学の立場をとる。あくまで、現在に過去は存在するのである。あるいはもう少し正確に言えば現在の私の実存が自らの現実に実存する世界に紡ぎだしてくるものが過去である。そして、その過去をじっと見つめる作業を続けていくと、その果てに驚いたことに私たちは未来を発見するとサルトルは言うのである。ややこしい言い方で恐縮だが、もちろん、その過去は今ここに存在するというのである。おわかりだろうか?わからねえかなあ。
 今存在する過去をみつめていると、未来がみえる。つまり、言い方を変えれば、未来も過去もすべて現在するというのである。そして、サルトルは私たちはこの未来なしには生き生き生きることはできないと考える。

鏡の中の過去

 野球選手が不振にあえいでいるときのバッティングフォームの研究を例にとってみたい。彼らが鏡に映している自分の現在のバッティングフォームはもちろん〈現在〉の姿である。しかし、よく考えてみよう。彼らがああでもない、こうでもないと素振りを繰り返し発掘している〈フォームとしての身体〉は紛れもない、過去のものである。あの良き時代の自分のフォームをそこに探しているのである。それはまさしく、〈現在する過去〉探しである。現在、過去のあったがままの過去は確かに存在してはいない。しかし、今なくしてしまった私が痛切にあったに違いないと感じる過去を現在の中に探す、これが過去性だとサルトルは言うのである。歴史研究とはかくのごとく、かつて存在し、今は非存在となってしまった無いものを〈今〉のなかに探すことである。そう、プルーストばりに、失われた時を求めて、とそれをいってもいいだろう。このことばの切実なニュアンスが過去を探求することなのだとサルトルは言うのである。

アッと驚く未来の出現

 素振りの練習は続いている。畳はすり切れ、足の皮はむけて出血している。と、その時
王貞治は発見した(古いか!でも、われわれ世代はこの例には王なんだねえ)。
「アッ」と叫んだかどうだか・・・
 この発見の瞬間でビデオテープの画面を止めてみよう。つまり、見つけたのである、これがそのフォームだとというものを。そのフォームはもちろん、現在するものである。しかし、それは過去に存在したと王が確信したものである。多分、その過去は光り輝いていたことだろうね。これまた古くて恐縮だが、『巨人の星』なら、さしづめ、背景が輝いて、花形の額から汗かなんかが流れているだろうね、
「わかったぞ!星君」とか言っちゃって。
 この過去にまといつく輝きこそ〈未来〉であるというのが、サルトルの見解である。過去を探索し、輝きにあふれる過去を見つけたら注意しな、それが未来だぜとサルトルは言うのである。つまり、この光り輝く過去をめがけて現在の私たちは努力していこうとする。過去を発掘するのは何のためか、それは畢竟努力目標を見つけるためである。これがサルトルの過去と未来に対する見解である。そして、くどいがくわえてサルトルは私たちは切実な未来無くしては生き生き生きれないというのである。

欠けたもの探しとしての生

 将棋仲間と一局の将棋を終えると必ず感想戦をやる。早い話が検討会である。もう一局すぐ指すということは普通しない。どうだったのか、何がわるかったのか、なぜ、どの手で負けになったのか、検討するのである。それは過去の中にもう一度もぐり、最善手を探すのである。それは絶対に必要な作業である。それは次回同様な場面をむかえたときの対策になるからだ。いわば、未来の準備のために過去をみるのである。
 サルトルは私たちの実存を〈欠如という穴〉として規定する。人間はいつも今、欠けたものをかかえている。そして、その欠けたものは残念ながら御本人さんはついに気づくことはできない。そしてたえずその〈欠如=穴〉の正体を探し、埋めようと努力している。私たちは今生きているが、これはこの穴埋め作業をしている。あそこではなくここに居り、ワープロを打っている。これは何かの穴埋め作業である。私たちはいつもこうした〈穴=欠如〉を抱いて放浪している、とサルトルは言うのである。その無いものを探し、満たされたものを映像として見つけ、満たそうと努力している。現在とはその努力の連続なのだというのである。人間はこの穴を現在する過去を見つめる中から見つけ、そのむこうにみえてくる未来としての目標を見いだす。そして、たえず欠けたものを埋めようとして生きている。こう、サルトルは人間を切って見せるのである。
 私は現在の歴史教育の在り方には基本的に批判的である。歴史がこうした欠けたもの探しとなっているのか。人は、サルトルによれば切実に欠けたものを埋めようとするというのである。ならば、私たちが歴史を学び、その果てに星飛雄馬ばりにガーンと光り輝く未来像を歴史の史実から見いだしえているか。答えはもちろん否である。歴史はしょせん受験のタネであり、単なる単位の出汁でしかなくなっている。史実を見つめる作業が〈なつかしさ〉や〈そうだったのだ〉という発見として光り輝くものとして高校生に構成してみせてあげることが私たちの課題なのである。一見意外の感をお持ちになるかもしれないが、実は立川談志の古典落語への努力は歴史のこうした本来のあり方を模索する努力とかさなっていくのである。


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