タコ足配線
無学級・無学年制のもつ可能性をもたらす単位制の構造を私は
「タコ足配線」
と呼びます。このタコ足配線こそが単位制の命なのですが、そのすごさを示すのが、何度も書いてきた
800人いれば800通りの時間割が存在する、
という事実だと思いますね。つまり、朝から晩まで一緒という人は一人としていないはずなのです。少なくとも私が十年の余勤続した中で一緒の生徒をみたことがないむねかいてきました。
これは、こういうことを教室に惹き起します。
私は生徒に質問します。
「一日、全部講座が一緒の人っていますか?」
そういう人はまずいませんが、次にこう、質問します。任意の人を指して。
「この方が次にどの講義を受けるか、ご存じですか?」
「この方が、前の授業でどこにいたか、ご存知の方はいますか?」
偶然の一致があれば別ですが、ほとんど場合、みな知りません。
いずこから来て、いずこへと向かうか?
単位制高校の履修システムでは、各人に各人の来し方、行く末を容易には把握させません。それは、人間関係的に見れば、対人関係のストレスを大幅にそぎ落としてくれるのです。たとえていえば、東京の山手線で乗り合わせた乗客を考えてみてください。中には、ワキガ臭がきつい方が乗り合わせてくるかもしれません。しかし、やがて降りて行き、ま、よほどのことがない限り二度とお目にかかりませんね。
いじめさせないシステム
単位制高校は、こうして多様な人間関係を同居させるうえで最大の問題となる対人関係のストレスを縮減する構造となっているのです。
ある生徒が気に入らない、として、いじめたいと思ったとしましょう。しかし、彼は次の時間には、ばらばらになって散っていきます。次の教室を突き止めても、授業が終わったとき、そこにはもはや当該の生徒はいる可能性は少ないのです。
これがタコ足配線を原理とする単位制高校の、多様を同居させる構造なのです。無学年、無学級制というものをここで考えておく必要があります。
のちに論じますが、このシステムはこういう反論をナンセンスとして退けます。
それは、
「気の合わない人間ともうまくやることが大切だ」
という反論です。みなさんは、この反論が、いじめを増幅させ、学校を萎えさせてきたのだ、という無学年、無学級制の問題意識を一度はお考えいただければいいと思います。無学年、無学級制にだって人間関係は存在します。しかし、そこには、無学年、無学級制が、「選択制」という契機を挿入させた同居となっているということ、学年制のもつ村的運命共同体組織構成から、目的を共有する共同体への転換をっ無学年、無学級制が志向しているということ、このことを通したうえでの、
「気の合わない人間ともうまくやる」
ことを学ぼうとしているということ、ここを考えてみる必要があると思います。
囲い込むな!
まとめてみましょう。
無学年、無学級制は生徒の選択を契機にして、HRが形成されるのです。つまり、授業のクラスこそがクラスなのです。それは、言い換えると無学級となるのです。無学級とは、どういうことかというと、一つ一つのクラスへの所属を軽いものにする、ということなのです。
重く、重く、重く!
「何がなんでもそのクラスに運命共同体のように所属をしない。好きでもない。だれだかもよくわからない。それでもなかよくする。ずっと生活する」
こういうことを否定するところから始まっているのです。それは、教科担当者にしても、クラス担任にしてもそうなのです。
「囲い込むな!」
という禁制こそが、無学年無学級制の生命線なのです。
この制度は、いいます。
「あんた同じ哲学ももたない。いやな人間と、無理して生活するの、好きなの?M??(笑)」
「どうせ、人間関係を患うのなら、同じ考えを持ち、同じ方向性をもち、相手を認められる関係で患おうよ」
これ、違うって人は「農業共同体社会」の人が多いのですが、はたしてそれって健全なのでしょうか?
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それは、『抱え込み』という現実の中で、教師にどんなメリットがあるのかということです。
例えば、会社で営業マンが、より良い顧客を抱え込む事は同時に、自分自身の給与評定や出世に関わってきます。ですから、なるべく良い顧客を掴み離さないという努力をします。
教師もそうしたことが要求されているのでしょうか?
良い学校へ進学する生徒を・・・出席率の高い生徒を・・・スポーツに秀でた生徒を・・・抱え込むことでそれが教師の評価になっているのか?という現実があるのかということです。
それとも、そうしたメリット自体も存在せずに、抱え込みというものが必要なのだとしたら、それにはどんな意味があるのか?
少なからず、生徒や保護者は、『教師の世界』を覗き見ることはとても困難です。それは、それだけ情報が開示されていないですし、情報として漏れ出ることのない機制があるのではないかと思うのです。
■おっしゃっていることについては、特別私に反論したり、抗弁する余地はありません。■で、setunaさんの問題提起は、このシリーズのなかで特別に議論したいと考えています。■そのうえで、こういうように問題を整理したい。なぜ、無学年、無学級制の学校に、学年を挿入することになってしまったのか?これは、強硬に挿入しようという意図があったからです。その意図はなにか、ということです。とりわけ、setunaさんがお書きなられた、「プライマリ」と中央高校で呼んでいる、中学校を卒業してそのまま・直に高校へと進学した(私が――ちょっと放送禁止用語になってしまうけど、――「処女」と呼んだ)生徒たちを特別に囲い込み、ホームルームとして編成するという制度が明らかに無学年、無学級制という原則に反するのではないか、という問題提起ですね。■この矛盾を、どのように説明していくのか、なぜ、学年を挿入したがるのか?■あってはならない、クラスへの囲い込みをなぜ可能にし、無学年、無学級制を、骨抜きにしていくのか?これは、現在の教育システムの最大の矛盾です。■教育界は、一度として内部から改革をしたためしはありません。そこを踏まえて議論しないと、問題解決を誤ります。■なお、この一連の文章は、現状分析よりも理念を示したいと思い、書いています。すると、setunaさんがお書きになられたように、その原理と現実との乖離がすぐにも浮き彫りになります。■まず、その浮彫を浮き彫りとして浮き立たせたい、そのうえで解決を探る、そういう物差しとなる理念を示したいと思っています。その際に、同時併行的に、setunaさんのような貴重な現状分析をアップできればと思います。
先生が中央にいた時からの私の疑問をコメントにしたいと思います。
授業中に一度質問したことがありましたが、実際の中央高校では、『プライマリ』『1.2年次』『卒年次』というようにゼミの選択が限定されています。本年度も、プライマリの生徒さんに尋ねましたが、プライマリ以外のゼミを『処女』は選択できるとの学校側からの説明は無かったと聞きました。
逆に私たち1・2年次は、プライマリを選ぶことを許されません。
つまり、学年の無いとされる単位制高校で、確実に処女に向かっては、ある意味学年制を敷いているわけです。もちろん、狭められた選択制というなら、1・2年次にも同じことが言えます。
この現実は、抱え込みにこれは当たらないのでしょうか?
先生が以前に、授業中の私の質問に対してのお答えは、『プライマリにはそれ独自の『教育』が必要だから』とおっしゃいました。また、卒年次ゼミに関しても、就職、進学等の指導のためという、学校側の都合に拠るところと仰っていました。
このとき、私の知っている中卒現役の子がプライマリに在籍していましたから、プライマリでの活動の詳細を聞いていました。その頃の年次集会で行われたのは、『読み聞かせ』でした。市内の読み聞かせボランティアを呼んでの図書の読み聞かせです。これが、果たして処女への『教育』?なのか甚だ疑問でした。
もし、先生のお書きになられたように、無学年、無学級なのだとしたら、中央高校の現在はとても矛盾したシステムをとっているのではないでしょうか?
それとも、長稜ではプライマリがないのでしょうか?
単位制高校では、そもそもが抱え込みが出来ないシステムにもかかわらず、私は前年、ある光景を見ました。
ある教師が、次年度の履修登録の折、自分のゼミを選択するように生徒に支持する場所に居合わせたのです。
これは、教師が、専門性や独自性を持って、生徒の事由の上で勧誘するのとは違います。自分が御しやすく、尚且つ成績がよく、出席日数の多い子を自分のゼミに入れようとする意図で、自分のゼミに入るように仕向けるのです。例え、それが、冗談めいて生徒に発した言葉だったとしても、私には、単位制高校のシステムを理解していないように映りました。
これらの学年が無いとされる学年制、クラスが無いとされる抱え込みという現実は矛盾としか言いようが無いと思うのです。