履修登録、履修登録、履修登録
無学年、無学級制というシステムを象徴するのが、 履修登録 という制度です。何回も書きますが、通常の共産主義の学年制に慣れ親しんだ人には、この制度の重要性がわからないのです。
無学年、無学級制の単位制高校は、
1に履修登録、2に履修登録、
3,4が無くて、5が履修登録
なんです。
ところが、高校の教員にとって、授業はほとんど平均値において
手抜き なんです。
口から出まかせ、
ちょっ、ちょっと準備、
去年の焼き直し、・・・
なのです。
こういう感覚を身につけてしまっている人達がいくら懸命に無学年無学級制を運営しても、効率はいっこうにあがらないのです。
「公立高校なのに非効率高校」
なんです。「授業が一番、なんて当たり前じゃないか」 っておもいますよね。
それが当たり前になぜならないか、を無学年無学級制をとおして考えたいと思います。
くどいようですが(笑)、
「履修登録」って何?
とういう質問に答えておきます。
授業の登録です。
授業を何にするかを決定するということです。
これが、無学年無学級制の生命線だ、ということです。
把握不能の世界
単位制高校は理念的には在籍する生徒の数だけ時間割が存在するということです。学年のはじまり、ふつう4月ですが、このはじまりに授業を選択します。その時間割を一人ひとりが自分の選択で選ぶのです。
すると、
800人いれば800通り
の時間割が出現します。
私はこれまで、単位制高校に12年いますが、一度として同じ時間割の生徒に出会ったことがありません。どこかで、何かの選択で、異なっていくのです。それは、一体何を意味するか、ということです。
理念的にこのような想定をしてみましょう。
800人の受講生が一斉に授業を行うとします。すると、こういうことが出現するのです。
800人が1時間目の授業が終了して次の授業へと向かうとします。そこで800通りがいっぺんに次の授業へと移動するわけです。もちろん、前の時間と同じメンバーであるというケースは一部ありえます。しかし、全部が同じということはありえません。それでは、学年制になってしまいます。
この1時間目から2時間目への移り変わりをイマジネーションで描いてみてください。まるで、フルーツバスケットの椅子取りゲームのように、一斉に移動するのです。これを毎時間800人が行うのです。
800人が800人一斉に移動する。それも800通りの仕方で、自由に行う。規則がそこにはない!としたら、
一体、だれがどこにいるか、をいっぺんに把握することは可能でしょうか?
通常不可能!
です。いちいち調べなければならないからです。だれが、どこにいるか、それを毎時間確認する作業を考えてみてください。
不可能 なのです。大体、担任は、自分の該当クラスの生徒がいまはたしてどこにいるか、本当にいるか、を把握することが大変しにくいシステムなのです。これが800人だからまだいいのです。私が理想とする3000人の無学年無学級制になったらほぼ不可能です。
なぜか?
そこに無限が存在するからなのです。無限という表現をもう少し具体的に言えば、無政府的に生徒が履修しているからです。
私たちは原則、ひとりひとりの生徒の動向を把握することはできない。
ここを了解すること、了解していただくことからはじめないと無学年無学級制の理解を誤ってしまうのです。
ここで一つの問い
さて、では、ここで質問します。生徒の個々の選択行動が把握できない、とします。
その上で、生徒の履修状況をよくしようという課題が課せられたとします。
さて、皆さんは、この問いにどう答えますか?授業に出ない、という生徒がいるとします。しかし、その生徒たちの行動の把握は基本できないのです。だって、無限だから。
さて、どうするのか?
少なくも、授業へ出ないという選択をしている生徒がいたとしたら、彼らは不利益を自己責任のもとに負いますよね?そういう生徒が授業の消費を一生懸命するようにするようになるには、どうすればよいのでしょうか?
直接的な規制ができない、ということを条件として重ねて書いておきます。
経済学的観点から
これを経済学的な観点から眺めてみましょう。
こういうことです。授業は一つの商品です。商品を学校が売り出しました。その買い手が、購入したのですが、受容しないのです。
学校の先生は、ここで、普通考えられない大どんでん返しをします。
「何で食べないんだ?」
「何で消費しないんだ?せっかく買ったのに?」
この発想のおかしさをおかしさとして立ち上げられないところに学校社会の深い、深い病像が存在するのです。
おかしくないですか?
分業が細やかな世界
私たち無学年、無学級制の世界がどうしたらうまく運営されるか、を考えるとき、アダム・スミスがいう分業の世界を考えるとよいと思いますね。スミスは、近代経済社会を社会的な分業がシステム原理となる社会だと考えました。それは、個々の経済主体(大塚久雄的に言うと「中産的生産者」)が独立して供給する側として、分業する社会だ、と考えていました。
みなさんは、東京をイメージしてみるのがよいと思います。
1000万都民が存在する東京で直接個々の営業主体と需要者を把握できますか?だれがどこでどういう経済行為をおこなっているか、私たちは把握できないのです。そうです。無学年無学級制は、学年制のような社会主義計画経済で成り立ってはいないのです。その原則は、自由主義です。つまり、個々人が個々人の選択に任されて運営されていく、という原則です。それは、何も需要サイドだけに当てはまるものではなく、供給する側にも妥当する原則なのです。
それは、市場原理が供給する側にも機能し、分業が密接にかつ細やか=豊かに存在する社会だ、ということです。
もうひとつ、考えましょう。ヘーゲルです。ヘーゲルは、媒介ということを強調します。ヘーゲルは、近代社会というのはお互いが直接的な関係を持てない社会だ、といいます。直接的な関係をもてない社会というのは、こういうことです。ものの売り買いを考えてみましょう。売り手と買い手が直接対峙することができますか?対面販売をのぞいたら、ほとんど作り手が、買い手の意向を問い尋ねる前にものを作るという構造になっています。こうしたなかで細やかな供給を果たしえた時、需要として商品が妥当したとき、私たちは供給する側としても需要する側としても豊かになっていく、とスミスは考えたのでした。
まとめましょう。
無学年無学級制は、受講生の一つ一つの行為を把握しようとすることが原則できないシステムだ、ということです。
それは、生徒の一つ一つの履修登録という決定に支えられている、ということだ、と考えてよいと思います。
と、同時に、市場の需要と供給のギャップが必然的に存在し、当然、供給側の淘汰が存在するということです。 実は、この無限なる市場をいかに機能させていくか、という問題こそが私たちが、無学年無学級制を有効に機能させうるか、という課題となるのです。
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ニコニコ動画に行くと「貰い捨て」というシュールな画像を見ることが出来ます。
貰い捨てとは、年長者に貰った飴玉を、ありがとうございますと笑顔で礼を言いながらその場でペッと吐きだし、そのあと涼しい顔をする青年の動画です。
履修登録しながら授業に出てこない。それは、まさに貰い捨ての状態です。周囲(親や教師)や学校(システム)というモノから授業という飴玉を貰いながら、口に入れたら思いのほか不味い。
正直な生徒はそれをペッと吐き出す。そして、自分のことではないように涼しい顔をしてエスケープする。
この時、飴玉 = 授業 などと教員は考えもしません。自分の飴玉がうまいと信じて疑わない。
どんな飴玉がうまいのか、どんな飴玉が生徒にウケルのかなど考えることもないのです。
むしろ、俺の飴玉はうまいんだ!何故喰わねえんだと生徒に責任転嫁するのです。
市場社会の中で何が売れるのかを考えるのは当たり前のことです。実際にモノを売る仕事をしていなくても、自分の能力のどの部分だったら売りになるのかを考えている人は沢山います。
しかし、教員の世界にそれはほとんど皆無ではないでしょうか。個々の経済主体が独立して分業しない。何故ならば、教員は何があってもその身分を保証されるからです。
どんなに不味い飴玉を売っても誰にも何も言われないからです。履修登録は、生徒が飴玉を買うのです。あなたの授業が受けたいと意思表明し選択するのです。しかし、それが必ずしも本当に買いたい飴玉(授業)だとは限りません。その時に、生徒に食わず嫌いでしたごめんなさいと言わせる授業がどれほどあるのかということです。
うまい飴玉なら、きっと生徒は口に入れるでしょうし、どんなことをしても自分のものにしたいと思うでしょう。
教員免許状を手にすることは資格書を貰ったということのみです。大学出たての坊ちゃんもお譲ちゃんも先生と呼ばれます。一昔前の古い飴玉を売る人も教員と呼ばれます。教員でいるということは決して生徒にとって最良の「保証書」でははないのです。
生徒の主体性によって履修登録が行われ、多くの生徒にこの飴玉うまいと選ばれた時、それが保証書になるのだと思います。
この保証書が機能するためには、先ず授業を売り物にしてもらわない限り、生徒はいくら履修登録という決定権を持たされても買うことさえもできないのです。無いものは買えないし、不味いものも買いたくないのです。
単位制高校の意義は、これまでの学年制のように我慢して不味い物(授業)を買うのでは無くて、自分に必要なものを「選んでいいよ」ということです。
しかし、選びたくても選べないそれが実情なのではないでしょうか。生徒が多様な分、教員も多様でなければ市場は成り立たないのではないでしょうか。