「あの世」というものの概念が曖昧だった日本人に、「地獄教育」を施した代表的な仏教僧に空海(774~835年)がいる。
「善因善果(ぜんいんぜんが)、悪因悪果(あくいんあくが)」を弘めた空海の業績については、「仏教はいかにして日本人に『地獄教育』を行ったのか」で紹介した。
また、その空海は、20世紀前半に活躍したスイスの精神科医・心理学者のユング(1875~1961年)として転生していたことについても紹介している(ユングの過去世 心の奥に広がる「光」を求めて)。
この魂は、民族の枠を超えて転生し、様々な時代、様々な地域で、仏神の御心を伝えてきたが、日本においては、真言密教と共に毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)への信仰を弘めたことが偉業として際立っている。
奈良の大仏を建立し、毘盧遮那仏への信仰を打ち立てた行基菩薩(668~749年)が亡くなった四半世紀後に、生を受けた空海もまた、毘盧遮那仏の偉大性を伝え、様々な邪説を打ち払っていった。
今回、その空海の歩みの一端をたどってみたい。
若くして「宇宙即我」の神秘体験をしつつも、精進を重ねていく
昨年、生誕1250年を迎えた弘法大師空海は、関西圏を中心に奇跡や偉業が語り継がれ、宗派を超えて「お大師信仰」が広がっている。
ただ、生前の著作を読む限り、一貫して仏・宝・僧への「三宝帰依(さんぽうきえ)」を説き続けており、自らが信仰対象として崇められることを望んではいなかったように感じられる。
例えば、主著『十住心論』の序文には、法身なる大日如来に帰依し、大日如来と自己が一体になる「入我我入」の境地を伝えたい、という願いがつづられている。
(※真言密教における「大日如来」と「毘盧遮那仏」は、共に、宇宙の根本にあって世を遍く照らす根本仏を意味しており、同じ存在を指す)
空海は若き日に、土佐の室戸岬の洞窟で瞑想行をしていた時、魂が肉体から抜け出して宇宙に向けて拡大していき、明星が口の中に飛び込むという神秘体験をした。
「心に観ずるとき、明星、口に入り、虚空蔵の光明照し来って菩薩の威を顕し、仏法の無二を現す」(『御遺告』)
その時に現われた虚空蔵菩薩の光明は、仏法が無二のものだと証してくれた。そうした「宇宙即我」を垣間見た後も、釈尊の一弟子として、悟りに悟りを重ね、精進の道を歩み続けたのが、空海の人生であった。
「空白の7年間」に、どのような修行をしていたのか
空海は讃岐の帰化系氏族の家に生まれ、15歳で入京し、大学明経科で儒学を学んだ。しかし、それだけでは満足できず、役人になるエリートコースを捨て、仏道修行を始める。
はじめは正式な僧にならず、山野で修行していたといい、前出の神秘体験をした時期は明確に分かっていないが、大川隆法・幸福の科学総裁の『黄金の法』では、「二十歳と七カ月の頃であったと思われます」と指摘されている。
その後、空海は、先達の高僧に仏教の真髄を尋ねて回ったが、満足な回答をもらえずに悩む。
そうした中、22歳の頃、東大寺に参篭(さんろう)し、「願わくば、三世十方の諸仏、我れに不二の教えを示したまえ」と祈り、その21日目に、夢の中で、天から「大和高市郡の久米寺東塔の中に、汝の求める教法がある」と告げ知らされた。
久米寺の東塔を訪れると、果たして、そこに『大日経』が隠されていた。
24歳の頃、空海は、仏教・儒教・道教の優劣を比較し、仏教の優越性を説いた『三教指帰(さんごうしいき)』を著すが、その後、20代半ばから30代にかけて、遣唐使に選ばれる頃までの間、記録が残っていない「空白の7年間」がある。
後に、空海が唐に渡り、日本に持ち帰った経典が新しいもの(当時の日本にない経典)ばかりだったため、謎に包まれた「空白の7年間」については、一切経の読誦に精進していたという説もある。全てを読み込んでいたので、すでに日本にある経典は一切、持ち帰らなかったというのだ(渡辺照宏、宮坂有勝『沙門空海』参考)。
中国の僧・恵果和尚は、空海が訪れることを知っていた
空海は、31歳の時に遣唐使に選ばれる。当時、僧侶が遣唐使に選ばれる場合は、唐の国の師匠に弟子入りして宗派を日本に弘めたり、書写した経典を持ち帰ったりするのが主な役割であった。
空海の場合は、もともと、密教を継ぐことを意図して唐に渡ったと見られている。
とは言え、長安の都は不案内なので、半年ほど語学をしたり、インドから来た僧侶(般若三蔵と牟尼師利三蔵)から経典や梵字を学んだりしながら、空海は師事すべき高僧を探していた。