ブルース・リーに柔道を教えた日本人 リーについて語る(前編)
2017.11.29(liverty web)
香港のブルース・リーの銅像(画像はwikipedia)。
増田 辰彦
(ますだ・たつひこ)
ウエディング・ベイビーギフトのアナベル株式会社・代表取締役社長。柔道六段で、1969年、サンボ世界選手権で優勝。1970年、ブルース・リーが香港太子堂『日本武道館』に来訪した時、柔道を教える。その後、フィリピンに移住し、リーが亡くなる1973年までの間、家族ぐるみで交流を深めた。
ヌンチャクを駆使した華麗なカンフー・アクションで、ファンを魅了し続けた香港の俳優ブルース・リー(李小龍)。人気絶頂の最中、彼が謎の死を遂げたのは、1973年7月。映画「燃えよドラゴン」の公開直前で、32歳という若さだった。
11月27日はブルース・リーの誕生日。生きていれば77歳を迎えていた。
リーの誕生日の前日である26日、東京・銀座にある幸福の科学東京中央支部で、ブルース・リーに関するセミナーが開かれた。講師はリーに柔道を教えた、増田辰彦氏。増田氏は1970~73年、フィリピンのキリスト教青年会(YMCA)で柔道師範代を務め、リーの師匠として柔道を教えていた。
本欄では、セミナーの内容の一部を2回にわたって紹介する。
◆ ◆ ◆
香港でブルース・リーと出会う
私は1969年、柔道とレスリングをミックスさせたような、サンボという格闘技の世界選手権で世界一になりました。そして1970年、私が当時いた香港の柔道道場に、カッコいい男性と、映画スタッフらしき2~3人がやってきました。そのカッコいい男性が、李小龍(ブルース・リー)でした。
当時、香港映画はそれほど認められていなかったので、すごい人だとはわかりませんでしたが、彼らは、「世界一の武術映画をつくりたい」と言っていました。私は李に柔道を教えてあげて、一緒に食事に行き、格闘技について語り合いました。
その後、私は71年、フィリピンに移住しました。フィリピン大学で柔道を教えることになったのですが、ガソリン価格の高騰で、大学が休みになったりして、悶々とすることもありました。そんな中、李から「フィリピンに行くから、会おう」という連絡が入り、会うことになりました。当時、李は30歳、私は23歳でした。
フィリピンで再会を果たす
1971年は、李が主演した映画「ドラゴン危機一発」が大ヒットして、彼が香港のトップスターになった年でした。
当時、私はフィリピンYMCAで柔道師範代をしていたのですが、李がYMCAに現れても、誰もサインを求めて来ませんでした。しかし、食事のためにホテルに行くと、ドアマンは彼のことが分かったようで、VIP席に案内してくれました。
余談ですが、李はチップを100ドル(当時3万6千円)も渡していました。こうすることで、いろんなことをやってもらえるし、情報も集まります。外国で成功する秘訣だそうです。私は10ドルのチップでも、「渡しすぎた」と思ってしまいますが(笑)。
李には、柔道の受け身から教えました。彼は高い場所から落ちた時の受け身を取ることに挑戦していました。彼はアイデアマンで、どうすれば体さばきがよくなるかを常に考えていて、暇さえあれば、ボールを握って握力を強化したり、パンチを素早く打つ訓練をしていました。
面白かったのが、李は手を平行に組んで、∞の字に動かし、ヘビのようにくねらせて歩いていて、「なんだろう」と思っていました。これはダンスの動きなんですね。彼はチャチャというラテン系ダンスが得意で、全米の大会で優勝したこともあります。この動きを、競歩の選手などがやっているのも見たことがあります。これは、正しい歩き方の練習なのです。
そして彼はフィリピンで、ヌンチャクの基礎である棒術(カレ)を習得しました。
(後編に続く)
【関連書籍】
幸福の科学出版刊 『ブルース・リーの霊言』 大川隆法著
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