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《本記事のポイント》
- 怨霊の祟りが生み出す病気と不幸
- 憑依霊と対話し、退散させるプロの宗教家
- 凶悪な"日本産"悪鬼との総力対決
巫術、仏教、陰陽道、風水などを駆使した、怨霊・悪鬼との対決を描くオカルト・サスペンス映画である。韓国では1200万人が見るなど、空前の大ヒットを記録。霊の存在を100%の確信を持って描いており、ストーリーの斬新さも相まって、見ごたえのある作品になっている。
米国ロサンゼルス。巫堂(シャーマン)のファリムと弟子ボンギルは跡継ぎが代々謎の病気にかかるという奇妙な富豪一家から、法外な報酬で依頼を受け、その原因を探ることに。
すぐに先祖の墓が元凶だと気づいたファリムは韓国に戻り、 風水師サンドクと葬儀師ヨングンに協力を仰ぐ。
先祖の墓は、普通なら人が葬られるはずのない悪地に建てられていた。サンドクは不吉な気を感じて改葬を一度は断るが、ファリムの説得に応じてお祓いの儀式である"テサルお祓い"を行い、墓を掘り起こす破墓を決行。だが、この世に出てはならない"ヤバいもの"が墓の外に飛び出し、4人に襲いかかる──。
怨霊の祟りが生み出す病気と不幸
映画の前半は、在米韓国人富豪一家に祟る先祖霊との対決になっている。
昨今の日本では、旧統一教会問題の影響もあり、「先祖の霊が祟る」と言うだけで、霊感商法として糾弾されてしまいそうだが、韓国ではごくごく当たり前の日常的な出来事として扱われている。
今回、中心的に描かれている怨霊対策は、作品タイトル通り、お墓を掘り返して葬り直したり、火葬にすることで、怨霊を鎮め、祟りを消し去るという方法だ。だが、霊的真実からすると、これではやはり不十分であろう。
幸福の科学・大川隆法総裁は、著書『悪魔の嫌うこと』に収録された法話「怨霊の発生」の中で、恨みを持った霊が祟りを起こすことについて、次のように指摘している。
「家庭不和や病気、事故など、いろいろなことが出てくるのを見せることで、この世の人に、『これは何かが障っているのではないか。おかしいのではないか。お寺や神社、霊能者のところとかに行って、何とかお祓いしてもらおう』というような気持ちを起こさせることを目的としてやっているわけです。ですから、『宗教を軽んずるなかれ』ということは、繰り返し言っておきたいと思います」
やはり、怨霊対策の王道は、正しい宗教に帰依することである。そして、教えに基づいて、自らの心の中にある、悪霊を惹きつけている原因を反省することだ。
「霊の世界は『思い』の世界であり、似たもの同士は引きつけ合い、似ていないものは反発し合う世界です。このことを知らなければなりません」(『不動心』)
そのためにも、正しい宗教が全国津々浦々に広まり、その心の教えが社会の常識にならなくてはいけないことは言うまでもない。
憑依霊と対話し、退散させるプロの宗教家
また、この映画では、主人公たちが悪霊の憑依を探知し、乗り移らせて対話しながら、「何者であるのか」、「狙いは何なのか」を引き出そうとするなど、憑依現象がふんだんに描かれている。
こうした悪霊や悪魔との対話術の一つである「摂受(しょうじゅ)」について、大川隆法総裁は次のように語っている。
「摂受は、どちらかというと、優しく話をしながら、ジワジワと氷を融かしていくように相手の毒気を抜いていき、説得していくやり方です。これは、私もよくやっています。悪魔が入った相手に、だいたい一時間も話をさせると、相手の毒気がそうとう抜けていきます。言いたいことを言わせてしまうと、相手には、もう、繰り返して言うことがそれほどなくなってくるのです。言いたいことを、ある程度言わせ、いちおう聴いた上で、『あなたの言うことは、だいたい聴いた。しかし、ここが違うんじゃないの?』と言って、緩やかに相手を納得させながら、退散させていくわけです」(『悪魔からの防衛術』)
本来、宗教家が人々の尊敬を集めていた理由の一つは、こうした悪霊の探知・撃退能力のためでもあったと言える。
やはり宗教家は、霊的世界の実在を説き、この世に迷い出て人々に憑依する悪霊を説得し、撃退するだけの力を持つべく、正しく道に精進することが"あるべき姿"でなくてはならないだろう。
凶悪な"日本産"悪鬼との総力対決
映画のクライマックスは、かつて日本から移送されてきた悪鬼(日本語しか理解しない)との対決となっている。
戦国時代の日本で何万人もの武士を殺して悪鬼となったある将軍の遺体が、日本による統治時代に朝鮮に持ち込まれ、韓半島の風水的活力を封じ込めるために利用されたという設定になっている。
やや反日的な設定なのは気になるところではあるが、大学時代に妖怪研究会に所属していたというチャン・ジェヒョン監督は、日本向けのインタビューの中で「実は私は『日本ヲタク』ですよ。だから日本のヲタクの方に、『韓国の<日本ヲタ>が、日本のどんな要素を韓国の要素とミックスしたのかな』と探しながら、楽しんでもらえるんじゃないか、そんなふうにも思っています」(渥美志保氏によるインタビューより)と語っており、日韓の降魔術の伝統を総動員することで、新たな"オカルト的創造"を試みたのであろう。
劇中では、"耳なし芳一"のエピソードも取り入れられており、オカルト・エンターテイメントとして大変面白い発想だ。
グローバルになった世界では、外国産の悪魔や悪霊が持ち込まれて、大きな社会悪をもたらすことはあり得ることだろう。未だ中国にはびこるマルクス崇拝と共産党による独裁的な支配体制はその典型とも言えるのではないだろうか。そうした最先端の社会変動を踏まえて、日韓両国の降魔術を総動員した戦いを描いた点はとても斬新だ。
また劇中で手強い悪役として描かれている鬼だが、霊的世界には確かに実在するものの、その定義は多様、多種類である。
「鬼には、仏を外護するための地獄の執行官(パニッシャー)と、生前凶悪犯であって、幽界・地獄界で恐怖を起こす存在、角の生えた悪魔の三種類がある。また、生きながらに、殺人鬼と呼ばれることもある。非情さと、目的合理性、腕力の強さに特徴がある。ただ仏を外護している鬼たちは、検察官や警察官、悔い改めを現実化するための執行官であって、修行中の菩薩や諸天善神も多い」(『妖怪にならないための言葉』)。
「霊的世界は存在する」という100%の確信を込めて作られたこの映画は、「霊などない。あの世など存在しない」と考える唯物論者・無神論者を自称する方には、是非とも見ておいていただきたい作品ではある。