古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎で活躍した人~「ケンペル」~10

2013-01-30 04:45:50 | ホームページ更新

スローンが購入したケンペルの収集品は

大部分が大英博物館に所蔵されている。

一方ドイツに残っていた膨大な蔵書類は

差し押さえにあい、散逸してしまった。

ただし彼のメモや書類はデトモルトに現存する。

その原稿の校訂は最近も行われており、

『日本誌』は彼の遺稿と英語の初版とでは

かなりの違いがあることが分かっている。

ヴォルフガング・ミヒェルが中心となって、

2001年に原典批判版「今日の日本」が初めて発表された。

この原典批判版を皮切りとしたケンペル全集は

全6巻(7冊)刊行された。



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長崎で活躍した人~「ケンペル」~9

2013-01-28 06:05:09 | ホームページ更新
また、1727年の英訳された「シャム王国誌」は

同時代のタイに関する記録としては珍しく、

「非カトリック・非フランス的」な視点からタイが描かれており、

あくまでもケンペルの眼から見たタイ像であり

決して一次史料としては使えないが、

それでもタイの歴史に関する貴重な情報源となっている。



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幕末の長崎で活躍した人~「ケンペル」~8

2013-01-26 05:15:41 | ホームページ更新
ケンペルは著書の中で、

日本には、聖職的皇帝(=天皇)と

世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。

その『日本誌』の中に付録として収録された

日本の対外関係に関する論文は、

徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、

『日本誌』出版後、

ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。

また、『日本誌』のオランダ語第二版(1733)を底本として、

志筑忠雄は享和元年(1801)にこの付録論文を訳出し、

題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、

「鎖国論」と名付けた。

日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した。




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長崎で活躍した人~「ケンペル」~7

2013-01-24 06:15:56 | 長崎の歴史

1727年、遺稿を英語に訳させたスローンにより

ロンドンで出版された『日本誌』は、

フランス語、オランダ語にも訳された。

ドイツの啓蒙思想家ドーム が

甥ヨハン・ヘルマンによって書かれた草稿を見つけ、

1777~79年にドイツ語版を出版した。

『日本誌』は、特にフランス語版が出版されたことと、

ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、

ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、

知識人の間で一世を風靡し、

ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、

19世紀のジャポニスムに繋がってゆく。

学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが

日本に生えていることは「生きた化石」の発見と受け取られ、

ケンペルに遅れること約140年後に

日本に渡ったシーボルトにも大きな影響を与えた。

シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している。




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長崎で活躍した人~「ケンペル」~6

2013-01-22 04:35:06 | 長崎の歴史
『廻国奇観』の執筆と同時期に

『日本誌』の草稿である「今日の日本」

の執筆にも取り組んでいたが、

1716年11月2日その出版を見ることなく死去した。

故郷レムゴーには彼を顕彰して

その名を冠したギムナジウムがある。

彼の遺品の多くは遺族により、

3代のイギリス国王に仕えた侍医で

熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた。



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長崎で活躍した人~「ケンペル」~5

2013-01-20 06:25:08 | 長崎の歴史
1692年、離日してバタヴィアに戻り、

1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還した。

オランダのライデン大学で学んで

優秀な成績を収め医学博士号を取得。

故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。

ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、

近くのデトモルトに居館を持つ伯爵の

侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかった。

1700年には30歳も年下の女性と結婚したが

仲がうまくいかず、彼の悩みを増やした。

1712年、ようやく『廻国奇観』と題する本の出版にこぎつけた。

この本について彼は前文の中で、

「想像で書いた事は一つもない。

 ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」

と宣言している。

この本の大部分はペルシアについて書かれており、

日本の記述は一部のみであった。


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長崎で活躍した人~「ケンペル」~4

2013-01-18 05:45:17 | 長崎の歴史
その頃ちょうどバンダール・アッバースに

オランダの艦隊が入港していた。

彼はその機会を捉え、

使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。

こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務。

その後東インド会社の基地がある

オランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、

そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、

行き詰まりを感じていた彼に巡ってきたのが、

当時鎖国により情報が乏しかった日本への船だった。

こうして彼はシャム(タイ)を経由して日本に渡る。

1690年(元禄3)オランダ商館付の医師として、

約2年間出島に滞在した。

1691年と1692年に連続して、江戸参府を経験し

徳川綱吉にも謁見した。

滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て

精力的に資料を収集した。



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長崎で活躍した人~「ケンペル」~3

2013-01-16 05:45:32 | 長崎の歴史
1683年10月2日、使節団はストックホルムを出発し、

モスクワを経由して同年11月7日にアストラハンに到着。

カスピ海を船で渡ってシルワン

(現在のアゼルバイジャン)に到着し、

そこで一月を過ごす。

この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した

最初のヨーロッパ人になった。

さらに南下を続けてペルシアに入り、

翌年3月24日に首都イスファハンに到着した。

彼は使節団と共にイランで20か月を過ごし、

さらに見聞を広めてペルシアやオスマン帝国の

風俗、行政組織についての記録を残す。

彼はまた最初にペルセポリスの遺跡について

記録したヨーロッパ人の一人でもある。



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長崎で活躍した人~「ケンペル」~2

2013-01-14 05:05:19 | 長崎の歴史
故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、

さらにリューネブルク、リューベック、

ダンツィヒで哲学、歴史、

さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。

ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。

さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた。

1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。

そこでドイツ人博物学者

ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、

彼の推薦でスウェーデン国王カール11世が

ロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)と

サファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に

医師兼秘書として随行することになった。

彼の地球を半周する大旅行はここに始まる。



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