古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎の歴史~正月編~4

2012-12-31 05:35:29 | ホームページ更新
『オランダ正月』~4


~江戸芝蘭堂のオランダ正月~3


玄沢の子・大槻磐里が没する天保8年(1837)まで

計44回開かれたという。

玄沢の孫如電は「磐水事略」の中で、

次のように述べております。

「この会は常にオランダ正月と唱え、

爾後年々冬至より第11日目に賀宴を開き、

社友を会すること、磐水没後も元幹受け継ぎて

凡そ50年許永続したりき。

漢方医者の冬至に神農祭をなすより、

オランダ正月には西洋の医祖と仰ぐ

ヒポクラテスの象を掛けて祭りしなり。」


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長崎の歴史~正月編~3

2012-12-30 06:15:17 | 長崎の歴史
『オランダ正月』~3


~江戸芝蘭堂のオランダ正月~2


記念すべき第1回の江戸オランダ正月は

津藩の市川岳山が描く『芝蘭堂新元会図』で知られ、

出席者による寄せ書きがされており、

当日の楽しげな様子が十分伺える。

大きな机にはワイングラス、フォーク、ナイフなどが置かれ、

部屋には洋式絵画が飾られている。

出席者は他に玄沢の師であり

すでに『解体新書』の翻訳で名を上げていた杉田玄白や、

宇田川玄随などがいた。

オランダ正月の背景には、

8代将軍徳川吉宗による洋書輸入の一部解禁以降、

蘭学研究が次第に盛んとなり、

この頃には蘭癖と称された

オランダ文化の愛好家が増加していたことがある。

蘭癖らの舶来趣味に加え、

新しい学問である蘭学が一定の市民権を得ていたことを受け、

日本の伝統的正月行事に把われることなく、

蘭学者たちが親睦を深め、

自らの学問の隆盛を願い、

最新情報の交換を行う集まりとして、

以後も毎年行われるようになっていった。

ただし、当時使用されていた寛政暦などの太陰太陽暦と

西洋のグレゴリオ暦とのずれは毎年異なっていたため、

便宜上、翌年以降は冬至

(太陽暦でも太陰太陽暦でも同じ日である)

から数えて第11日目に

オランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となった。


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長崎の歴史~正月編~2

2012-12-29 06:05:33 | ホームページ更新
『オランダ正月』~2


~江戸芝蘭堂のオランダ正月~1

江戸時代中期に活躍した通詞吉雄耕牛の自宅は

2階にオランダから輸入された家具を配して

「阿蘭陀坐敷」と呼ばれており

庭園もオランダ渡りの動植物にあふれ

長崎の名所となっていた。

通詞以外の全国の蘭学者も多く師事した耕牛の家では、

やはり太陽暦の元日に合わせ、

オランダ正月が催されていた。

江戸の蘭学者で指導的な地位にあった大槻玄沢も、

この吉雄家洋間のオランダ正月に参加して感銘を受けた。

歴代のオランダ商館長は

定期的に江戸へ参府することが義務づけられていたが

寛政6年(1794)のヘイスベルト・ヘンミーの江戸出府で

オランダ人と初めて対談した大槻玄沢は、

これを機にこの年の閏11月11日が

西暦で1795年1月1日に当たることから、

京橋水谷町にあった自宅の塾芝蘭堂に、

多くの蘭学者やオランダ風物の愛好家を招き、

新元会(元日の祝宴)を催した。

ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待されていた。


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長崎の歴史~正月編~1

2012-12-28 04:45:38 | 長崎の歴史
『オランダ正月』~1

江戸時代に長崎の出島在住のオランダ人たちや、

江戸の蘭学者たちによって行われた

太陽暦(グレゴリオ暦)による正月元日を祝う宴である。

「紅毛正月」などと呼ばれることもある。


~長崎のオランダ正月~

元々は長崎出島のオランダ商館で、

日本在留のオランダ人が祝っていた風習であった。

江戸幕府によるキリスト教禁令のため、

表だってクリスマスを祝うことができなかったオランダ人が、

代わりとして冬至に合わせて「オランダ冬至」として開催し、

また日本の正月の祝いをまねて

太陽暦による正月元日に

出島勤めの幕府役人や出島乙名、

オランダ語通詞たち日本人を招いて

西洋料理を振る舞い

オランダ式の祝宴を催したのが始まりである。

これを長崎の人々は阿蘭陀正月と呼んだ。

やがて長崎に住む日本人

とりわけオランダ通詞らの家でも

これを真似てオランダ式の宴が催されることもあった。

異国の文化に関心をもっていた長崎の人たちは、

その様子を版画や絵画に描き残しています。

文政年間の『長崎名勝図絵』では献立が記されており

牛肉・豚肉・アヒルなどの肉料理や

ハム、魚のバター煮、カステラ、

コーヒーなどが饗されていたようだが、

招かれた日本の役人は

ほとんど手をつけずに持ち帰ったともいう。


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幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~9

2012-12-23 05:45:13 | ホームページ更新


『長崎海軍伝習所』



安政2年(1855)に江戸幕府が

海軍士官養成のため長崎に設立した教育機関。

幕臣や雄藩藩士から選抜して、

オランダ人教師によって

西洋技術・航海術・蘭学・諸科学などを学ばせた。

安政2年(1855)第1期生は

江戸出身者37名と他藩128名

(薩摩藩16名・肥後藩5名・筑前藩28名・

 長州藩15名・肥前藩47名・津藩12名・

 備後福山藩4名・掛川藩1名)、

安政3年(1856)第2期生は幕臣12名、

安政4年(1857)第3期生は26名集まったが、

安政4年(1857)3月に

総監永井尚志はじめ多数の伝習生が

新設された築地軍艦操練所に移動したため、

長崎海軍伝習生は45名程になった。

安政6年(1859)には閉鎖され、

慶応2年(1866)には横浜海軍伝習所が設立された。


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幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~8

2012-12-21 05:45:11 | ホームページ更新
第一次教師団の団長であったライケンは、

「狭く、深く」追求するタイプで、

何事も中途半端な知識をとても嫌いました。

一方の第二次教師団のカッテンディーケは、

「広く、浅く」のタイプで、

できるだけ伝習生には

多くの知識を教授するよう努めた

正反対の人物でした。

勝海舟の江戸っ子気質と、

このカッテンディーケの大らかさは、

何か通じるものがあったのでしょう、

勝海舟にオランダ語の文法書を贈るほど、

カッテンディーケと海舟は気が合いました。


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幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~7

2012-12-18 06:55:25 | ホームページ更新
祖国に帰るときに

「自分がこの国にもたらそうとしている文明が、

 果たして一層多くの幸福をもたらすか自信がない」

という言葉を残している。

彼自身は西洋文明の優越を感じ自負しながらも、

日本を開国していわゆる西洋流の

「進歩」をもたらすことの弊害に

躊躇をしているのである。


日本を訪れた多くの異邦人が、

日本を美しい国と称し、日本人を

「幸福そうだ」と形容してるのである。

「この国の質朴な習俗」とともに、

その「飾り気なさ」を讃美し、

この国土の豊かさを見て、

「子供たちの愉しい笑声」を聴き、

「幸福な情景」に神聖なものを感じ、

感動しているのである。



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幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~6

2012-12-16 05:15:06 | ホームページ更新
カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力

~長崎海軍伝習所の日々~3


日本では婦人は、

他の東洋諸国と違って、

非常に丁寧に扱われ、

女性の当然受けるべき名誉を与えられている、

という。
  
婦人は、社会的には、

ヨーロッパのようにあまりでしゃばらない。

男より一段へり下った立場に甘んじているが、

決して婦人は軽蔑されているのではない。

私は日本美人の礼賛者というわけではないが、

彼女らの涼しい目、美しい歯、

粗いがふさふさとした黒髪を

きれいに結った姿のあでやかさを

誰が否定できようか、

と絶賛する。

しかも、しとやかで、

すこぶる優雅である、とほめちぎる。

でも、
 
「私が日本で、実に美人だと思った女は

 数名に過ぎなかった」とも。。。



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幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~5

2012-12-14 06:05:11 | ホームページ更新
カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力



~長崎海軍伝習所の日々~2


開港後の長崎では、

しばしばコレラが発生している。

海軍伝習所には

日本近代医学の創始者ともなった


医師ポンぺがいて、

流行を防ぐことに活躍している。

カッテンディーケの在任中にも

コレラが発生した。

本当なら恐慌も起きるはず。

ところが、長崎の人たちは少しも騒がない。

それどころか、町中で行列を作って、

太鼓を叩いて練り歩き、

鉄砲を打って市民の気を浮き立たせ、

厄除けをしていた、

と驚嘆している。

また、葬儀の棺を担ぐときも、

〝あたかもお祭り騒ぎのように戯れていた〟

と書き、

「日本人は死を恐れないことは格別である」

と感想を述べている。



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幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~4

2012-12-12 06:45:12 | ホームページ更新
カッテンディーケが記した幕末長崎の魅力

~長崎海軍伝習所の日々~1
カッテンディーケが著わした回顧録

『長崎海軍伝習所の日々』には、

外国人の視点から

幕末の長崎の風景が詳細に描かれ、

興味深い記述が多く見られます。


ある日、カッテンディーケは

稲佐悟真寺にある国際墓地に出かけ、

数年前に出島で亡くなったオランダ人の墓碑に

供えられている新鮮な花を発見しました。

尋ねると、

故人は遊女を身受けし同居していたが

幸福な時間は長く続かず、

重病にかかり、献身的な看護も実らず亡くなり

その彼女が年2回の彼岸の日に墓参りをして、

花を供えているというのです。

彼が亡くなったあと再び遊廓に戻り

のちに僧侶の妻となります。

異教徒の国際墓地に墓参りをするという事実も、

長崎の特異な海外交流史のなせる

宗教的寛容さかもしれません。

カッテンディーケ自身も、

部下の水兵を病で亡くし国際墓地に埋葬した際に、

近所の寺(稲佐悟真寺と思われる)の僧侶からの

「仏式の経を唱え線香をあげたい」

という申し出を快く受けています。



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