古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(5)

2010-06-21 16:05:23 | 長崎の歴史
10年後の国会開設に備え、

明治15年(1882)には小野梓とともに立憲改進党を結成。

尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。

小野梓や高田早苗らと

東京専門学校(現早稲田大学)を

東京郊外の早稲田に開設した。


明治20年(1887)伯爵に叙された。


大隈の外交手腕を評価する伊藤は、

不平等条約改正のため、

政敵である大隈を外務大臣として選び、

明治21年(1888)外務大臣に就任した。

同年黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、

外国人判事の導入を巡って反対派の抵抗に遭い、

明治22年(1889)には

国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に

爆弾による襲撃を受け、

右脚を切断、辞職した。

明治29年(1896)第2次松方内閣

(「松隈内閣」と呼ばれた)で

再び外相に就任するが、

薩摩勢と対立して明治30年(1897)に辞職。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(4)

2010-06-16 16:55:58 | 長崎の歴史

大隈の下には

伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、

木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳い

大久保利通らを牽制した。

当時、政治談義にふけった大隈の私邸をさして

「築地梁山泊」と称した。



民部省を吸収合併させて

大蔵省を一大官庁とした大隈は

地租改正などの改革に当たるとともに、

殖産興業政策を推進した。

征韓論には反対し、

その後、殖産興業と財政改革という点から、

明治8年(1875)大久保利通と連名で

財政についての意見書を提出したりしている。

西南戦争による支出費用の調達と

その後の財政運営に携わった。


自由民権運動に同情して

国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と

国会の即時開設を説く一方、

開拓使官有物払下げを巡り

かつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、

大隈自身の財政上の失政もあり、

明治14年(1881)参議を免官。

大隈は辞表を提出した。

明治13年(1880)には、

会計検査院創設のための建議をおこなっている。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(3)

2010-06-15 15:45:21 | 長崎の歴史
明治維新に際しては小松帯刀の推挙により

明治元年(1868)徴士参与職、

外国事務局判事に任ぜられた。

キリスト教禁令についての

イギリス公使パークスとの交渉などで

手腕を発揮するとともに、

明治2年(1869)からは会計官副知事を兼務し、

高輪談判の処理や

新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。

明治3年(1870)に参議に補され、

明治6年(1873)5月、大蔵省事務総裁、

10月から参議兼大蔵卿になった。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(2)

2010-06-12 17:15:09 | 長崎の歴史
「大隈重信」




長州藩への協力および

幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、

藩政に影響するには至らなかった。

慶応元年(1865)佐賀藩が

長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を

改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」

(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、

副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。

またフルベッキに英語を学ぶ。

このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、

大きく影響を受けた。

また京都や長崎に往来して、尊王派として活動。

慶応3年(1867)副島と共に

将軍徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、

脱藩して京都へ赴いたが、

捕縛の上、佐賀に送還され1か月の謹慎処分を受けた。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(1)

2010-06-10 17:25:53 | 長崎の歴史
「大隈重信」




佐賀藩士、政治家、教育者。

第8代、第17代内閣総理大臣。

従一位大勲位。侯爵。

東京専門学校(現早稲田大学)の創立者。



天保9年(1838)佐賀城下会所小路に、

佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。

幼名は八太郎。

大隈家は、知行300石を食み

石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄。


7歳で藩校弘道館に入学

佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、

これに反発し、

安政元年(1854)に同志とともに藩校の改革を訴えた。

安政2年(1855)に南北騒動をきっかけに退学、

後に復学を許されたが戻らず、

この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。

安政3年(1856)佐賀藩蘭学寮に転じた。

のち文久元年(1861)鍋島直正に

オランダの憲法について進講し、

蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。


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