10年後の国会開設に備え、
明治15年(1882)には小野梓とともに立憲改進党を結成。
尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。
小野梓や高田早苗らと
東京専門学校(現早稲田大学)を
東京郊外の早稲田に開設した。
明治20年(1887)伯爵に叙された。
大隈の外交手腕を評価する伊藤は、
不平等条約改正のため、
政敵である大隈を外務大臣として選び、
明治21年(1888)外務大臣に就任した。
同年黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、
外国人判事の導入を巡って反対派の抵抗に遭い、
明治22年(1889)には
国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に
爆弾による襲撃を受け、
右脚を切断、辞職した。
明治29年(1896)第2次松方内閣
(「松隈内閣」と呼ばれた)で
再び外相に就任するが、
薩摩勢と対立して明治30年(1897)に辞職。
古美術 崎陽
明治15年(1882)には小野梓とともに立憲改進党を結成。
尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。
小野梓や高田早苗らと
東京専門学校(現早稲田大学)を
東京郊外の早稲田に開設した。
明治20年(1887)伯爵に叙された。
大隈の外交手腕を評価する伊藤は、
不平等条約改正のため、
政敵である大隈を外務大臣として選び、
明治21年(1888)外務大臣に就任した。
同年黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、
外国人判事の導入を巡って反対派の抵抗に遭い、
明治22年(1889)には
国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に
爆弾による襲撃を受け、
右脚を切断、辞職した。
明治29年(1896)第2次松方内閣
(「松隈内閣」と呼ばれた)で
再び外相に就任するが、
薩摩勢と対立して明治30年(1897)に辞職。
古美術 崎陽