『町年寄』~19
~長崎奉行との関わり~7
石谷備前守清昌は、
後藤惣左衛門貞栄を
町年寄の上席の長崎会所調役に任命し、
一代限りの帯刀を許可した。
その理由は、後藤惣左衛門は
他の長崎の地下人と違い金銀の海外への流出を禁止し
国益を守る事を心がけているからだと述べている。
その一方で、宝暦13年(1763)3月には、
長崎地下人達に対してその生活に関する触書を通達した。
これは主に倹約について述べられており、
役人同士の談合などの際の酒食の量にまで言及している他、
役人同士の贈答の禁止、
親戚以外の結納の祝儀の禁止、
衣服の制限や冠婚葬祭・仏事の簡素化など、
非常に厳しいものであった。
これは町年寄も例外ではなく、
町年寄から奉行への贈答や、
役人から町年寄への贈答を禁止し、
町年寄の衣服は絹紬羽二重までといったことが定められた。
古美術崎陽
長崎の歴史
~長崎奉行との関わり~7
石谷備前守清昌は、
後藤惣左衛門貞栄を
町年寄の上席の長崎会所調役に任命し、
一代限りの帯刀を許可した。
その理由は、後藤惣左衛門は
他の長崎の地下人と違い金銀の海外への流出を禁止し
国益を守る事を心がけているからだと述べている。
その一方で、宝暦13年(1763)3月には、
長崎地下人達に対してその生活に関する触書を通達した。
これは主に倹約について述べられており、
役人同士の談合などの際の酒食の量にまで言及している他、
役人同士の贈答の禁止、
親戚以外の結納の祝儀の禁止、
衣服の制限や冠婚葬祭・仏事の簡素化など、
非常に厳しいものであった。
これは町年寄も例外ではなく、
町年寄から奉行への贈答や、
役人から町年寄への贈答を禁止し、
町年寄の衣服は絹紬羽二重までといったことが定められた。
古美術崎陽
長崎の歴史
『町年寄』~18
~長崎奉行との関わり~6
このように松浦信正の改革は
町年寄を含めた地下役人全てを統制し、
会所に権力を集中させて貿易業務を管理するものであった。
この改革において、
彼は会所役人の村山庄左衛門・森弥次郎達を
改革に必要な協力者として取立てたのだが、
用行組と呼ばれる彼らは
松浦が長崎奉行を退いた後も権勢を振るい、
長崎奉行・町年寄の支配を無視した振る舞いが多く、
長崎奉行を辞した後も
勘定奉行の加役として長崎掛を命じられた松浦との癒着が続いた。
しかし、宝暦3年(1753)に松浦が失脚すると、
寛延元年(1748)に「商売方会所取締り」を
任ぜられた村山庄左衛門を始め
用行組の面々は厳罰に処せられる事となり(用行組事件)
松浦により様々な制限をされた町年寄の権限は復活した。
古美術崎陽
長崎の歴史
~長崎奉行との関わり~6
このように松浦信正の改革は
町年寄を含めた地下役人全てを統制し、
会所に権力を集中させて貿易業務を管理するものであった。
この改革において、
彼は会所役人の村山庄左衛門・森弥次郎達を
改革に必要な協力者として取立てたのだが、
用行組と呼ばれる彼らは
松浦が長崎奉行を退いた後も権勢を振るい、
長崎奉行・町年寄の支配を無視した振る舞いが多く、
長崎奉行を辞した後も
勘定奉行の加役として長崎掛を命じられた松浦との癒着が続いた。
しかし、宝暦3年(1753)に松浦が失脚すると、
寛延元年(1748)に「商売方会所取締り」を
任ぜられた村山庄左衛門を始め
用行組の面々は厳罰に処せられる事となり(用行組事件)
松浦により様々な制限をされた町年寄の権限は復活した。
古美術崎陽
長崎の歴史
『町年寄』~17
~長崎奉行との関わり~5
これは、町年寄を頂点とした地下人たちの組織と
長崎会所による組織の二重構造となっていた長崎を、
年番町年寄を長崎会所上席に据える事で会所に取り込み、
その下で諸事を全てにわたり掌握する組織を
再構築する事を目的としていた。
これ以後、町年寄が担当していた勘定関係業務は
長崎会所に移管され、
貿易に関するさまざまな帳面の作成は会所で担当し、
町年寄が裁決する事となった。
この他にも本興善町の糸蔵に保管されていた
江戸への御調進薬種の扱いを会所に移す等、
貿易業務を会所を中心としたシステムに変えていった。
そして、先述のように町年寄末席を廃止し、
怠慢な役人の数を減らし、
地下役人の受容する銀の額を減らす等、
経費の削減にも着手した。
奢侈の厳禁・禁令の遵守などを命じ、
町年寄には地下人に対する十分な世話と教育をするように命じた。
その上、町年寄から筆者・小役・
女性に至るまでの衣服の規定をし、
町年寄に対しては婚姻・結納における接待の簡素化まで命じた。
古美術崎陽
長崎の歴史
~長崎奉行との関わり~5
これは、町年寄を頂点とした地下人たちの組織と
長崎会所による組織の二重構造となっていた長崎を、
年番町年寄を長崎会所上席に据える事で会所に取り込み、
その下で諸事を全てにわたり掌握する組織を
再構築する事を目的としていた。
これ以後、町年寄が担当していた勘定関係業務は
長崎会所に移管され、
貿易に関するさまざまな帳面の作成は会所で担当し、
町年寄が裁決する事となった。
この他にも本興善町の糸蔵に保管されていた
江戸への御調進薬種の扱いを会所に移す等、
貿易業務を会所を中心としたシステムに変えていった。
そして、先述のように町年寄末席を廃止し、
怠慢な役人の数を減らし、
地下役人の受容する銀の額を減らす等、
経費の削減にも着手した。
奢侈の厳禁・禁令の遵守などを命じ、
町年寄には地下人に対する十分な世話と教育をするように命じた。
その上、町年寄から筆者・小役・
女性に至るまでの衣服の規定をし、
町年寄に対しては婚姻・結納における接待の簡素化まで命じた。
古美術崎陽
長崎の歴史
『町年寄』~16
~長崎奉行との関わり~4
松浦河内守信正は、貿易利益銀の確保と
長崎町年寄を始めとする長崎地下役人の
人員削減による経費節減を老中より命ぜられ、
大幅な改革を実施した。
松浦の地下への申渡しは、
年番町年寄は長崎会所で業務を遂行し、
商人・役人とは会所で接見し
自宅で業務を行うことを禁止。
地下役人の申請・願書等は、
年番町年寄の出勤時間に合わせて提出し、
それを町年寄が受理。
町年寄の家来が長崎地下に関することを処理する事を厳禁
長崎会所役人が吟味して町年寄が裁断する。
町年寄が月番で取扱っている業務や
金銀勘定は会所に移譲し、
自宅へ会所役人を呼ぶ事を禁じ、
問題があれば町年寄が会所へ出向く。
年番町年寄やその他の町年寄が取扱っていた控諸帳面は、
今後は会所が引き継ぐ事。
他にも町年寄の会所への出勤・退出時間の規定や、
職務に怠慢な者への処罰等、多岐にわたった。
古美術崎陽
長崎の歴史
~長崎奉行との関わり~4
松浦河内守信正は、貿易利益銀の確保と
長崎町年寄を始めとする長崎地下役人の
人員削減による経費節減を老中より命ぜられ、
大幅な改革を実施した。
松浦の地下への申渡しは、
年番町年寄は長崎会所で業務を遂行し、
商人・役人とは会所で接見し
自宅で業務を行うことを禁止。
地下役人の申請・願書等は、
年番町年寄の出勤時間に合わせて提出し、
それを町年寄が受理。
町年寄の家来が長崎地下に関することを処理する事を厳禁
長崎会所役人が吟味して町年寄が裁断する。
町年寄が月番で取扱っている業務や
金銀勘定は会所に移譲し、
自宅へ会所役人を呼ぶ事を禁じ、
問題があれば町年寄が会所へ出向く。
年番町年寄やその他の町年寄が取扱っていた控諸帳面は、
今後は会所が引き継ぐ事。
他にも町年寄の会所への出勤・退出時間の規定や、
職務に怠慢な者への処罰等、多岐にわたった。
古美術崎陽
長崎の歴史
『町年寄』~15
~長崎奉行との関わり~3
しかし、長崎における海外貿易の重要性が増すにつれ、
長崎の町の行政に不可欠な町年寄以下の町役人を
幕府の機構に組み入れるための様々な改革が行われた。
長崎における地下人の司法権が、
町年寄から長崎奉行に移管されたのは、
海舶互市新例が発布された正徳5年(1715)から。
萩原伯耆守美雅は、
長崎会所の中で素行が悪い者や怠慢な者は
免職にして役人を削減し、
また経費の削減や役人の不正を防止するよう指示を出した。
町年寄の統率力を強化し、
地下役人の腐敗・怠慢を無くして貿易業務を円滑化し、
不正な資金が地下人達へ流れることを食い止め
利益の確保、運上金や貿易の資金を捻出するため。
古美術崎陽
長崎の歴史
~長崎奉行との関わり~3
しかし、長崎における海外貿易の重要性が増すにつれ、
長崎の町の行政に不可欠な町年寄以下の町役人を
幕府の機構に組み入れるための様々な改革が行われた。
長崎における地下人の司法権が、
町年寄から長崎奉行に移管されたのは、
海舶互市新例が発布された正徳5年(1715)から。
萩原伯耆守美雅は、
長崎会所の中で素行が悪い者や怠慢な者は
免職にして役人を削減し、
また経費の削減や役人の不正を防止するよう指示を出した。
町年寄の統率力を強化し、
地下役人の腐敗・怠慢を無くして貿易業務を円滑化し、
不正な資金が地下人達へ流れることを食い止め
利益の確保、運上金や貿易の資金を捻出するため。
古美術崎陽
長崎の歴史
『町年寄』~14
~長崎奉行との関わり~2
随筆『翁草』には、
長崎奉行は交易のことのみで、
その他のことは枝葉の如く考え、
町方の行政は町年寄に全てを任せた為、
町年寄の専横が多かったと書かれている。
しかし、貿易業務や行政だけでなく、
長崎を見舞う問題にも奉行と町年寄は連携して対処。
島原の乱が勃発した時、
長崎の警固を大村藩に要請したのは町年寄であった。
また、享保17年(1732)の蝗害による西国の大飢饉に際して、
当時の長崎奉行大森山城守時長は、
商人が買い占めている米を調べてそれを確保し、
また大坂や下関等の諸国に飛脚を送り
長崎に米穀を廻送するように町年寄に命じた。
この時の大森山城守の措置により、
長崎は十分な食料の確保が出来、
餓死者は1人も出なかったという。
古美術崎陽
長崎の歴史
~長崎奉行との関わり~2
随筆『翁草』には、
長崎奉行は交易のことのみで、
その他のことは枝葉の如く考え、
町方の行政は町年寄に全てを任せた為、
町年寄の専横が多かったと書かれている。
しかし、貿易業務や行政だけでなく、
長崎を見舞う問題にも奉行と町年寄は連携して対処。
島原の乱が勃発した時、
長崎の警固を大村藩に要請したのは町年寄であった。
また、享保17年(1732)の蝗害による西国の大飢饉に際して、
当時の長崎奉行大森山城守時長は、
商人が買い占めている米を調べてそれを確保し、
また大坂や下関等の諸国に飛脚を送り
長崎に米穀を廻送するように町年寄に命じた。
この時の大森山城守の措置により、
長崎は十分な食料の確保が出来、
餓死者は1人も出なかったという。
古美術崎陽
長崎の歴史
『町年寄』~13
~長崎奉行との関わり~1
長崎奉行は在任期間はその多くは数年で、
長崎在勤期間は隔年で1年ずつ。
しかも奉行の配下として働く与力・同心などは
数十人にすぎないため、
奉行が単独で長崎の町の現状や
貿易の仕組みを理解して
任務を遂行するのは甚だ困難であった。
そのため、長崎土着の役人であり
貿易業務を知り尽くしている町年寄達の協力は不可欠。
町年寄の専断は許されず、
その職務には奉行所の許可が必要だったが、
許可が下りないという事はほとんど無かった。
また、長崎に新任の奉行が着任する際には、
年番町年寄が地役人の代表として日見峠に出向き、
奉行の一行が峠で小憩を取る時にその到着を祝う。
古美術崎陽
長崎の歴史
『町年寄』~12
~町年寄末席~
町年寄末席は、
海舶互市新例以後に設けられた役職である。
享保20年(1735)に薬師寺与三右衛門が初めて任命されたが、
元文5年(1740)に薬師寺が病死した後は、
空席のままであった。
それが、延享3年(1746)に町年寄の高島作兵衛が死去した際に
その子である高島八郎兵衛が、
寛延元年(1748)に町年寄の福田六左衛門が死去した後に
倅の福田六之丞がそれぞれ町年寄末席に補任された。
しかし、役人の人員削減のため、
長崎奉行の松浦信正によりこの役職は廃止される。
ただし、両人の父親が本家の後見役を勤めたこともあるので、
一代限りにおいて町年寄末席を許可し、
その子孫は出島乙名・唐人屋敷乙名になるようにと命じられた。
古美術崎陽
長崎の歴史
~町年寄末席~
町年寄末席は、
海舶互市新例以後に設けられた役職である。
享保20年(1735)に薬師寺与三右衛門が初めて任命されたが、
元文5年(1740)に薬師寺が病死した後は、
空席のままであった。
それが、延享3年(1746)に町年寄の高島作兵衛が死去した際に
その子である高島八郎兵衛が、
寛延元年(1748)に町年寄の福田六左衛門が死去した後に
倅の福田六之丞がそれぞれ町年寄末席に補任された。
しかし、役人の人員削減のため、
長崎奉行の松浦信正によりこの役職は廃止される。
ただし、両人の父親が本家の後見役を勤めたこともあるので、
一代限りにおいて町年寄末席を許可し、
その子孫は出島乙名・唐人屋敷乙名になるようにと命じられた。
古美術崎陽
長崎の歴史