古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

鎮信流 出島でお茶会

2012-02-28 14:35:26 | ホームページ更新
長崎支部  魚住茶会  只今募集中

[魚住先生]が

豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の
       観光客を対象に催したお茶会です。

日本の、誇り高い文化(お茶)をならいませんか。

奥ゆかしく、エレガントで素敵な女性になりますよ

    
     私の趣味・・・おもいで

長崎で活躍した人~頼山陽(23)

2012-02-28 07:05:50 | ホームページ更新
山陽の九州遊歴~1

山陽は、文政元年(1817)、

下関から対岸の大里に渡り、

初めて九州の土を踏んだ。 

博多では、亀井昭陽を訪ねて旧交を温めた。

ところで、頼山陽、亀井昭陽、

佐賀の古賀穀堂(精里(せいり)の長子)の三人は

「 文政の三太郎 」 と称された。 

山陽の通称が久太郎

昭陽が太郎、穀堂が壽太郎だからである。 

それは寛政期の学界の巨人、

柴野栗山(通称は彦助)

尾藤二洲(通称は良助)

古賀精里(通称は彌助)の「寛政の三助」

あるいは「寛政の三博士」に比し

後日の大成を期待されたからである。 

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長崎で活躍した人~頼山陽(22)

2012-02-26 08:35:13 | ホームページ更新
エピソード~2

京都での彼の地位も高まり、

公卿の日野大納言資愛に招かれました。

普通の学者なら喜んだでしょうが、

山陽は断りました。

大勢の詩人や学者と一緒に招かれるのは

面白くありません。

大納言資愛は四度も使いをよこしました。

さすがの山陽も心を動かし、こう答えました。

「私のような者を

 それほどまでにご所望くださるからには、

 ありがたくお受け致します。

 しかし参上いたしますには望みがございます。
 
 第一には~~

 行儀よく坐って…家来扱いはせず…

 着物はこのまま、酒は「剣菱」…

 魚は琵琶湖の取りたて…」

あれこれ注文をつけたのにも関わらず

「望み通りにするから来ていただきたい。」

と誘われます。

同席の学者たちの驚きなど平気で、

資愛の質問に、歴史・儒学・詩文、

なんでも自由に答えます。

なお一層、感心して篤くもてなされました。

その後、お礼にと金一封が届きます。

その包みには、「日野家」と大きく書いてあり

下に「頼山陽殿」と小さく書いてあったので、

不愉快になりそのまま返します。

「学問に地位や身分は関わらない」と

資愛は悟り、書き直して再び届けました。

以来、親しく山陽の家を訪れたそうです。

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長崎で活躍した人~頼山陽(21)

2012-02-24 06:55:04 | ホームページ更新
エピソード~1

江戸で学問中の話。

碌な見識もないような学友たちと

席を同じくするのを潔しとしない山陽の

態度が癪にさわった学友たちが、

ある晩、彼の前に1本の線香を立て

「これが燃えている間に、

 中国の名将30人を題にした詩を作ってみたまえ」

と挑みました。

笑って、鼻をへし折ってやろうという企みでした。

ところが、すぐ筆を取って、

名だたる名将を読んだ詩をたちまち30作りました。

線香は燃え尽きるどころか

数センチも残っていました。

学友たちもこれには開いた口がふさがらず、

「蘇東坡が生まれ変わってきたか」

と感服してしまいました。

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長崎で活躍した人~頼山陽(20)

2012-02-22 05:45:09 | 長崎の歴史
頼」という名字は珍しいのですが、

これは頼家の先祖で

戦国時代の名将小早川隆景の

部下だった岡崎頼兼という武士の子孫が

鍛冶屋になって、

「頼兼」の「頼」を名字に

「兼」を「金屋」という屋号にしたからだそうです。

その後、頼家は

広島県の竹原市にて代々海運業を営むのですが、

山陽の祖父・惟清(亨翁)の時、

紺屋(青染め)になりました。

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長崎で活躍した人~頼山陽(19)

2012-02-20 07:15:04 | ホームページ更新
山陽は書画や篆刻にも才能を発揮しました。

特に書家として高く評価されています。

山陽は若い頃から春水の書風を学び

30代以降は中国の米元章・蘇東坡らの書法を研究し

40代後半以降に独特の書風を完成。

また、上京以後、

中林竹洞・浦上春琴・田能村竹田・

江馬細香らの画人と親交を結び、

中国画を学び、特に40代以降、

気韻の高い水墨画を多数のこしています。

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長崎で活躍した人~頼山陽(18)

2012-02-18 07:05:06 | ホームページ更新

strong>幼少時から詩文の才能を示しました。

14歳の時に作った詩「癸丑歳偶作」

  十有三の春秋 逝く者は已に水の如し
  天地 始終無く 人生 生死有り
  安んぞ古人に類して 千載 青史に列するを得ん

 「どうか、いにしえの聖賢のように、

  永久に歴史書に記されるような

  人物になりたいものだ」

と詠んだこの詩は

周囲の人々や学者たちの注目を集めました。

山陽のその後の人生を暗示するかのような

象徴的な内容です。

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長崎で活躍した人~頼山陽(17)

2012-02-16 06:35:14 | ホームページ更新
眉山は山陽が美濃の門人を訪ね、

帰路西粟野の庄屋河野家に立ち寄った時に

眉を引いたように優美な山容に感じて

名付けたと言われている。

酒をこよなく愛した人物としても知られ、

白雪・剣菱・男山などの銘酒を

詩歌や書簡の中で幾度となく称えている。

文人達の集まる琴会(七絃琴を愉しむ会)に

たびたび足を運んだが、

自身は平曲を嗜んだ。

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