古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎で活躍した人~頼山陽(9)

2012-01-30 07:35:24 | ホームページ更新
山陽の周辺には、京阪の文人が集まり、

一種のサロンを形成した。

その主要メンバーは、

父・春水とも関係があった木村蒹葭堂と

交友した人々の子であることが多く、

大阪の儒者篠崎三島の養子・小竹、

京都の蘭医小石元俊の子・元瑞、

大阪の南画家岡田米山人の子・半江、

京都の浦上玉堂の子・春琴が挙げられる。

さらに僧雲華、尾張出身の南画家・中林竹洞、

やや年長の先輩格として陶工・青木木米、

そして遠く九州から文人画家・田能村竹田も加わり、

彼らは盛んに詩文書画を制作した。

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    長崎の歴史

長崎で活躍した人~頼山陽(8)

2012-01-27 07:45:09 | 長崎の歴史


文化13年(1816)父・春水が亡くなると

その遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。

翌々年には九州旅行へ出向き、

広瀬淡窓らの知遇を得ている。

長崎にも立ち寄り、

天草洋の風景を詠んだ

「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩をつくる。

山陽は京都に在って営々と著述を続け、

文政9年(1826)には彼の代表作となる『日本外史』が完成。

ときに山陽47歳。

翌年には老中・松平定信に献上された。

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長崎で活躍した人~頼山陽(7)

2012-01-23 07:05:14 | ホームページ更新
しかしこの上京が広島藩に無届であったために

第二の脱藩事件ともなりかねなく、

茶山の意向によって上京したという形をとって落着。

文化8年(1811)32歳以後は没するまで

洛中に居を構え開塾する。

小石元瑞の養女梨影と再婚し

その後三男一女

 辰蔵(早世)・支峯・三樹三郎・陽子

が生まれました。

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長崎で活躍した人~頼山陽(6)

2012-01-21 07:15:28 | ホームページ更新
謹慎を解かれたのち、

文化4年(1807)には竹原に遊んで、

尾道の女性画人平田玉蘊に出逢う。

しかし平穏な日常に満足することができず

父春水の友人で儒学者の菅茶山より招聘を受け

茶山が開いていた廉塾の都講(塾頭)に就任。

文化6年(1809)山陽30歳。

廉塾での山陽は茶山の代講や

詩集『黄葉夕陽村舎詩』の校正を担当。

茶山は山陽を塾の後継者として期待し

福山藩への出仕や妻帯を勧めました。

が、その境遇にも満足できない山陽は

学者としての名声を満天下に轟かせたいとの思いから

2年後に京都へ出奔した。

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長崎で活躍した人~頼山陽(5)

2012-01-19 07:05:18 | ホームページ更新


竹原から従弟の景譲(叔父春風の子)が

養子に迎えられました。

妻淳子は藩法によって離縁され

同年に生まれた長男聿庵(1801~56)は

頼家に引き取られた。

幽閉は3年間に及び

その後も2年間の謹慎生活が続き

これがかえって山陽を学問に専念させ、

学業は進み、著述に明け暮れた。

『日本外史』の初稿が完成したのもこのときである。

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長崎で活躍した人~頼山陽(4)

2012-01-17 07:15:17 | ホームページ更新
青少年期の山陽は病弱で

精神的に不安定だったようです。

帰国後はその傾向が益々強まり

寛政11年(1799)広島藩医・御園道英の娘

淳子と結婚しましたが

翌寛政12年(1800)大叔父伝五郎の

弔問のために竹原へ向かう途中突如脱藩。

京都の福井新九郎(後の典医・福井晋)の家に潜伏。

しかし発見されて広島へ連れ戻され、

廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。

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長崎で活躍した人~頼山陽(3)

2012-01-15 09:15:14 | ホームページ更新
天明元年(1781)広島藩の学問所創設にあたり

儒学者に登用されたため転居。

山陽は城下の袋町で育った。

父と同じく幼少時より詩文の才があり

また歴史に深い興味を示した。

春水が江戸在勤となったため

叔父の頼杏坪に学び

18歳になった寛政9年(1797)には江戸に遊学し、

父の学友・尾藤二洲に師事した。

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長崎で活躍した人~頼山陽(2)

2012-01-13 07:25:27 | 長崎の歴史
山陽の祖父頼惟清は

安芸国竹で紺屋(染物業)を営む町人でした。

父の頼春水は幼い頃から詩文や書に秀で

明和3年(1766年)には大坂へ遊学。

尾藤二洲や古賀精里らと共に朱子学の研究を進め

大坂江戸堀北に私塾「青山社」を開いた。

居宅を「春水南軒」と名づけた。

安永9年(1780)ここで山陽が生まれた。

母もまた儒医飯岡義斎の長女静子で

梅しの雅号を持つ文人です。

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長崎で活躍した人~頼山陽(1)

2012-01-11 07:25:42 | ホームページ更新
頼 山陽(らい さんよう)

安永9年(1780)~天保3年(1832)

幼名は久太郎(ひさたろう)

諱は襄(のぼる)

字は子成  

号 山陽、三十六峯外史

江戸時代後期の歴史家、漢詩人、文人。

芸術にも造詣が深い。

また陽明学者でもあり、

大塩平八郎に大きな影響を与えた。

安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。

中国文学者の頼惟勤(らい つとむ)は子孫。


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