古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

五代 友厚-136

2016-10-30 09:55:24 | 長崎の歴史



明治期に友厚が採掘権を持っていた三重県治田村
(現・いなべ市)の治田鉱山を1919年に買い戻し、
五代アイの名で経営を始め、
自らも地下足袋・もんぺ姿で山に通って採掘努力を続けたが、
思うような成果が得られないまま現地で亡くなった。
現在もアイが掘らせた手掘りの隧道が残っている。

三女 - 土居芳子。土居通夫
(司法官、鴻池家顧問を経て、

京阪電鉄など多数の企業の社長を歴任し、

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五代 友厚-135

2016-10-28 06:45:48 | 長崎の歴史



大阪科学技術センタービルとなる。
友厚邸には、友厚のイギリス行きを支援した

小松帯刀の妾・三木琴とその娘・壽美も
小松の死後、同居していた。
次女 - 五代藍子(1876-1965)。
母親は宮地勝子
(京都宮侍の娘、旧姓・大谷かつ)。
友厚が設立した精藍所にちなんで命名された。
義兄・五代龍作が経営する

半田銀山に20代から身を寄せ、
洋書で鉱山学を学び、

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五代 友厚-134

2016-10-26 07:45:26 | 長崎の歴史



1875年に東京の外国語学校を卒業し、
1881年に帝国大学工学部を卒業。

大阪製銅の技術者を
必要としていた友厚の計らいにより、
第4回文部省留学生として

ロンドン大学で3年間機械工学を学び、

1885年に帰国して東京大学教授になったが、
五代家に婿入りして五代龍作となり、
友厚の事業を継いだ。
武子・龍作の息子に法学士・信厚、
娘に厚子(チッソ社長の白石宗城に嫁ぐ)がいる。
武子一家が暮らした
友厚邸は1960年初頭に取り壊され、

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五代 友厚-133

2016-10-24 06:15:26 | 長崎の歴史



後妻 - 豊子(?-1892)。1870年に結婚。
長女 - 五代武子(1871-?)。
1886年に九里龍作 (1858-1938)と結婚。
龍作は紀伊国(現・和歌山県)
本宮の士族・高須兵太夫の次男だが、
大阪で両替商をしていた叔父の
紀伊国屋九里正三郎の養子となり
大阪府平民となった。 src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/ce/5836137486dcc0cdbf8fb84034d5306c.jpg" border="0">

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五代 友厚-132

2016-10-22 05:05:25 | 長崎の歴史



家族父 - 五代直左衛門秀尭(?-1853)。
島津家譜第の家来であり、
島津藩儒官(儒学教師)で町奉行も務めた。
子に長男・徳夫、長女・広子、
次男・才助(友厚)、次女・信子。
母 - 本田やす子(?-1967)(きよ子?)
妻 - 坂本広子。慶応3年(1867年)に結婚し、
娘・治子(のち松子)をもうけるも離婚。



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五代 友厚-131

2016-10-20 07:05:08 | 長崎の歴史



商売人にとって「信用」は最も大切であり、
不正を容認することは信用を失い、
不正を糾弾することでその
信用を勝ち取ろうとする五代の信念があった。
五代は商人である前に「正義」「大儀」を
重んじる一人の武士であり、
不正を見逃すことも
国益を損なうことも出来ない性分だった。

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五代 友厚-130

2016-10-18 06:25:21 | 長崎の歴史



次第に五代が駐在する大阪港では外国船の
荷物検査があまりにも厳しいという抗議が政府まで届き、
政府が取り締まり緩和勧告を出すほどの騒動に発展した。
しかし、五代は外国商人の要求の真意が
荷物検査が行われることによる
不満(脱税や不正行為ができなくなる為)であることを
見抜いていたので全く動じなかった。

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五代 友厚-127

2016-10-12 07:15:40 | 長崎の歴史



恵まれた環境五代は小松清廉や西郷隆盛、

大久保利通などの要人と知り合いだった。

長州藩の高杉晋作や土佐藩の

浪人坂本龍馬とも非常に仲が良い。
このように一流の人物たちと
関わり合える条件をもっていたことが
五代の後の功績へと役立った。
加えて、五代が役立てたものは英語力である。
当時から外交に英語力は欠かせなかった。
特に薩摩藩城代家老
小松清廉には重用されて恩義を感じ、
小松死後はその妻(側室)子の面倒を見たことでも知られる。

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