高杉 晋作-13 2015-09-30 04:55:05 | 長崎の歴史 京都では 薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである 8月18日の政変で長州藩が追放され、 文久4年(1864年)1月、 高杉は京都進発を主張する急進派の 来島又兵衛を説得する が容れられず 、 脱藩して京都へ潜伏する。 桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、 脱藩の罪で野山獄に投獄され、 6月には出所して謹慎処分となる。 7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、 来島は戦死、久坂玄瑞は自害する。 長崎の歴史
高杉 晋作-12 2015-09-28 06:35:36 | 長崎の歴史 6月には廻船問屋の 白石正一郎邸において身分に因らない 志願兵による奇兵隊を結成し、 阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、 9月には教法寺事件の 責任を問われ総監を罷免された。 長崎の歴史
高杉 晋作-11 2015-09-26 06:15:51 | 長崎の歴史 下関戦争と奇兵隊創設 文久3年(1863年)5月10日、 幕府が朝廷から要請されて 制定した攘夷期限が過ぎると、 長州藩は関門海峡において 外国船砲撃を行うが、 逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。 高杉は下関の防衛を任せられ、 長崎の歴史
高杉 晋作-10 2015-09-24 06:25:05 | 長崎の歴史 この過程で、 高杉は頼りになるのは 長州の志士だけだ とする長州ナショナリズム を形成し、 長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、 専ら桂や久坂が担当することとなる。 文久2年12月12日には、 幕府の異勅に抗議するため、 同志とともに品川御殿山に建設中の 英国公使館焼き討ちを行う。 また、幕府の罪人として処刑された松陰の遺骨を 白昼堂々小塚原から世田谷に移して会葬する 。 これらの過激な行いが幕府を刺激する事を 恐れた藩では高杉を江戸から召還する。 長崎の歴史
高杉 晋作-9 2015-09-22 05:45:58 | 長崎の歴史 しかし久坂が土佐の武市半平太に話したことから、 これが土佐前藩主山内容堂を通して 長州藩世子毛利定広に伝わり、 無謀であると制止され実行に到らず、 櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。 謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った 。 長崎の歴史
高杉 晋作-8 2015-09-20 06:35:06 | 長崎の歴史 折りしも、 外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶから そこで刺殺しようと同志 (高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、 志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、 赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎)が相談した。 長崎の歴史
高杉 晋作-7 2015-09-18 05:45:54 | 長崎の歴史 文久2年(1862年) 、 高杉は「薩藩はすでに生麦に於いて 夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、 我が藩はなお、公武合体を説いている。 何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。 藩政府でこれを 断行できぬならば……」と論じていた。 長崎の歴史
高杉 晋作-6 2015-09-16 06:25:06 | 長崎の歴史 尊王攘夷運動 長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、 尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、 高杉も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共に 尊攘運動に加わり、 江戸・京師(京都市)において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、 各藩の志士たちと交流した。 長崎の歴史
高杉 晋作-5 2015-09-14 06:15:37 | 長崎の歴史 留学 文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、 藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。 8月には東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。 文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、 幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、 清が欧米の植民地となりつつある実情や、 1854年からの民衆反乱である太平天国の乱を見聞して7月に帰国、 日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。 長崎の歴史
高杉 晋作-4 2015-09-12 06:25:22 | 長崎の歴史 安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を 見舞うが、松陰は10月に処刑される。 万延元年(1860年)11月に帰郷、 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女、 まさと結婚する。 長崎の歴史