古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

61代長崎奉行

2007-02-28 13:44:21 | 長崎の歴史
日付:2月28日
61代長崎奉行 新見加賀守正栄(まさなが)

(1)明和2年(1765)、この年、はじめて、唐船が、

花辺銀銭など古銭3370両余を輸入したので、

俵物を以ってこれと替える。

(2)同年、蘭船がはじめて金・銀銭を輸入した。

また、金千両を鉄銭に換えて輸出する。

(3)明和3年(1766)、奉行所は木鉢浦に石銭番所を置き、

帆別銭と称して出入船から一石に付き三文、

帆船一反に付き十五文をとり、長崎港浚渫(しゅんせつ)費用とした。


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51代長崎奉行

2007-02-20 13:44:25 | 長崎の歴史
51代長崎奉行 松波備前守正房

(1)寛保3年(1743)、唐船に定額外銀1000貫目分まで、

俵物を以って貿易することを許した。

(2)延享元年(1744)八月、町人八名に俵物一手請方を命ずる

(八名は、その祖先が、初めて、俵物貿易をしたゆかりの者)。

唐蘭船貿易の俵物をこの八名の専売として、代銀100貫目毎に、

2貫700目を会所に納めさせた。これを27銀と称した。

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33~35代長崎奉行

2007-02-19 15:17:34 | 長崎の歴史

日付:2月19日
35代長崎奉行 永井讃岐守直允(なおちか)
宝永2年(1705)9月10日、夜唐人屋敷から出火、11棟を焼失、180軒類焼。同年11月9日、

奉行は失火の責任を追及し、唐人屋敷乙名、組頭、小役人全員を免職にして、

後任は新規召抱えとした。

34代長崎奉行 林土佐守忠朗(ただあきら)(1)元禄13年(1700)から長崎奉行の定員四名と也、

二人在勤、二人在府の勤めとなる。席次は京、大阪町奉行の上座である。

(2)元禄15年(1702)十月、新地蔵所が完成した。

33代長崎奉行 大嶋伊勢守義也元禄15年(1702)5月5日、大雨出水の為西古川町、

万屋町の路上は水深三尺にもなった。

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32代長崎奉行

2007-02-16 11:46:32 | 長崎の歴史
32代長崎奉行 諏訪下総守頼蔭(しもふさのかみよりかげ)

(1)元禄11年(1698)、4月11日未明、諏訪下総守の西役所から出火。焼失した。

又4月23日、後興善町から出火、22か町炎症。家屋2044戸土蔵33棟、本蓮寺、唐船貨物多数を焼失。

奉行所は、米2000俵を類焼者に貸与した。


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32代長崎奉行

2007-02-16 11:46:25 | 長崎の歴史
32代長崎奉行 諏訪下総守頼蔭(しもふさのかみよりかげ)

(1)元禄11年(1698)、4月11日未明、諏訪下総守の西役所から出火。焼失した。

又4月23日、後興善町から出火、22か町炎症。家屋2044戸土蔵33棟、本蓮寺、唐船貨物多数を焼失。

奉行所は、米2000俵を類焼者に貸与した。


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30-31代長崎奉行

2007-02-15 17:20:09 | 長崎の歴史


31代長崎奉行 丹羽遠江守長守(とうとうみのかみ)

(1)元禄10年(1697)、十月、長崎奉行は、代物替会所を本興善町に置いた。

代物替の事務は、従来待ち年寄であったが高木彦右衛門の建議により、あらたに、

会所を設け彦右衛門が菅掌した。

(2)同12年(1699)7月4日、内町、外町の取り扱いの区別を廃止した。

30代長崎奉行 近藤備中守用章(もちあきら)

(1)元禄11年(1698)、割賦会所を長崎会所と改めた。幕府は、財政の逼迫に伴い利益の大きい

長崎貿易を官営事業に改める為、長崎奉行に命じて、割賦会所を止め、長崎会所を設立した。

(2)元禄元年(1688)、唐商船の定数を七十艘と決まっていたのを、元禄11年(1698)には入港の

唐船は10艘増加して80艘、蘭船四隻が10艘に増加して定数より6隻増加して入港を許した。

(3)渡辺秀石を御用絵師兼唐絵目利の役に任命した。

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28-29代長崎奉行

2007-02-10 12:59:15 | 長崎の歴史

日付:2月10日

29代長崎奉行 宮城越前守和澄(まさずみ)

(1)貞享4年(1687)、から奉行三名となり、長崎在勤二名、在府一名となる。

(2)元禄八年(1695)火葬場所を市中三箇所に設けた(伊良林郷矢の平、大久保、馬込郷浜の平)。

28代長崎奉行 山岡対馬守景助

(1)貞享4年(1687)、この年から奉行の定員は「三人制」となった。(2)元禄元年(1688)、

市中の人の所持する大小銃405挺徴収して武具庫に収める。

(3)同年、小瀬戸浦山上に、遠見番所を置く。異国船入港を古瀬戸から筑後町勧善寺、立山奉行所へと注進し、

遠見番人12人を増加して、二十二人とした。

(4)同年、幕府は、唐商船定数を年間70艘に制限、翌年から実施した。


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26-27代長崎奉行

2007-02-07 10:51:11 | 長崎の歴史

日付:2月7日

27代長崎奉行 大沢左兵衛基哲(もとのり)

(1)貞享4年(1689)、正月、この年から、奉行三人制となり、二名在勤した。

26代長崎奉行 宮城監物和充(まさみつ)

(1)天和元年(1681)、市中飢饉の為餓死する者多く、奉行所は銀100貫目を

市民に供出し米600石を貸与した。

(2)同年、従来、奉行が日見の観桜をするときは、市民から酒肴を供するのを、以後廃止した、


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24・25長崎奉行

2007-02-02 12:17:22 | 長崎の歴史

25代長崎奉行 川口攝津守宗恒

(1)天和元年(1681)、この年、異常気象で、飢饉の為米穀は窮迫・餓死者多く正月以来3000人を数えた。

奉行所は、官米500俵を供出、難民に貸与した。(2)貞享2年(1685)正月、貞享令(定高貿易法)を発令した。

清朝の鄭氏降伏により、中国貿易船の長崎来航が一時に増え、その輸入額も前年の四倍に跳ね上がった。

幕府は貿易高の制限を、中国船は毎年銀6000貫、蘭船は毎年銀3000貫と定めた。(3)貞享元年(1684)、

糸割符制の復活、諸色の相対貿易も認めた。理由は先の市法売買を廃止し、糸割符制の復活により、

ぜいたく品の輸入や長崎奉行以下諸役人の綱紀の弛緩となった弊害を除き、貿易額を制限する事で金銀の

流失を防いだ。(4)貞享2年(1685)8月、奉行は密売を防ぐ為唐人倉庫を封印した。(5)同4年(1687)、

この年から奉行三人制となった。二人在勤、一人在府、また、与力・同心制を廃止、奉行控えの給人が下役となった。

(6)元禄2年(1689)4月唐人屋敷完成。(7)同3年(1690)12月、この後、長崎奉行の格式が諸太夫席となり、

宗恒は従五位下摂津守で、将軍に拝謁できる有資格者となった。(これが奉行五位に叙する初め)

24代長崎奉行 岡野孫九郎貞明>

(1)延宝元年5月25日英船リターン号が入港し、通商貿易を願ったが、幕府は中国とオランダ二国のみの

貿易が幕府の方針、と伝えて許可しなかった。同26日に英船は出港した。(2)同3年長崎5箇所会所は、

はじめ本博多町に在ったが、延宝3年(1675)、八百屋町に移り、市法会所と改めた。

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