古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

(2)奉行の定員と勤番

2006-12-31 13:58:17 | 長崎の歴史
名前:崎陽店主 日付:12月31日

(三)貞享四年(1687)から元禄十二年(1699)までは奉行は三名となった。二人在崎し、一人は江戸にいた。
従来、二人の時は、立山、西の両役所で事が足りたが、三名となってからは、新奉行として下向する奉行の居宅がないので今年、江戸へ帰る奉行は下向してくる新奉行の江戸出発、当地到着の日時を計算して、その間に安禅寺に引越して、
その到着をまった。到着してきた新奉行は所定の役所に入り、安禅寺にいた奉行は江戸へ出発した。一名は必ず越年し、
明年になって、この年出発してくる者と交代するのであった。

(四)元禄十三年(1700)から正徳二年(1712)まで奉行は四名となり、二人在勤、二人江戸在府とした、そのころ、益々、唐、
蘭船の入港が多くなり長崎貿易は盛大になったので奉行の定数も増加した。

(五)正徳三年(1713)奉行三名。 (六)同四年(1714)、又減じて二名。 (七)天保十四年(1843)奉行一名
(八)弘化三年(1846)又二名となった 
(九)文久三年(1863)開国・鎖国の輪が国内に広まり人心動揺、長崎は土地柄からして、殊に激しかったので幕府は二名の奉行の上に、大村丹波守を長崎総奉行として置く事とし、外国船の入港の警備を厳重にした。

(2)奉行の定員と勤番

2006-12-30 15:20:31 | 長崎の歴史
名前:崎陽店主 日付:12月30日(土) 10時53分

(一)長崎奉行は文禄元年(1592)に設置されてから、寛永十年(1633)までは一名であった。もっとも、
初代寺沢志摩守は唐津城主であったから、家臣を長崎に派遣して政務を委せた。これは例外として、
他の奉行は、当時は南蛮船の入港が毎年六月か七月ごろで、帰帆は九月おそくとも十月中旬を越えることはなかったので、
その入港に先立ち着崎し、又、外国船の帰帆後に江戸に帰った。

(二)寛永十一年(1634)から貞享三年(1686)までは奉行は二名となった。うち一人は在崎し、(たいてい、毎年九月に交代)一人は江戸にいた。立山屋敷造営後は、新たに到着の奉行は西役所に入り、江戸へ帰る奉行が出発したあとに立山役所に移転した。

長崎の歴史 奉行編

2006-12-30 11:35:47 | 長崎の歴史
(1)奉行の職責

名前:崎陽店主 日付:12月30日(土) 10時53分

江戸時代の長崎奉行は、貿易、外交が最も重要な職務であった。唐蘭貿易を監督すると同時に諸外国の動勢を探って万一の異変に備え、一朝事ある時は将軍の名のもとに諸侯に号令する権限を与えられてた。いわば、奉行は行政、警察及び裁判事務はもとより、外国との貿易、長崎の防備に至るまでの行政、司法、軍事全般を掌握していた。