古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~小松帯刀(10)

2010-05-17 14:55:08 | 長崎の歴史
「小松清廉」


(10)


琴花は京都祇園で名妓と言われた芸妓で

小松帯刀とは15歳で宴席で出会い、

身請けされ京都の別邸にて

帯刀の上洛時には身の回りの世話をしながら

献身的に尽くします。

一男一女をもうけ、

大阪で小松が亡くなるとき看取っています。

正室の千賀は帯刀の死後、

お琴が産んだ息子安千代を養子にして育てます。

後に小松清直と名を改め小松家の家督を継がせます。

また、わずか4年後に若くして死んだお琴の骨を

小松家の墓に埋葬します。

妾の琴は帯刀清廉の死後、

長男・安千代を鹿児島の千賀に預け

帯刀と親交の厚かった五代邸で長女の壽美とともに暮らした。

当時でも珍しく、正妻、妾が同じ墓所に眠っています。


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幕末の長崎で活躍した人~小松帯刀(9)

2010-05-10 18:15:05 | 長崎の歴史
「小松清廉」


(9)


平成20年(2008)のNHK大河ドラマ『篤姫』では

主人公・篤姫の幼馴染という設定で、

篤姫との友情・恋慕が描かれた。

しかし、実際には両者が接点を持っていたという記録はなく、

これらのシーンは全てドラマ内の創作である。


坂本龍馬と小松帯刀は、

天保6(1835)年の同じ年の生まれである。

どちらも27・8歳頃から、国事に奔走し始め、

龍馬は大政奉還の直後に33歳の若さで

帯刀は明治新政府成立後まもない明治3年(1870)36歳で

命を落とす。

坂本龍馬が天下の大人物として9人をあげ

その中に小松帯刀の名もある。

新政府の人事構想では、

西郷、大久保、桂らを抑えて、筆頭に挙げられていた。


『幻の宰相』といわれた。

下級武士に過ぎなかった西郷や大久保らを

近代日本史に残る英傑へとその才能を引き出し支援したのが、

27歳の若さで薩摩藩家老となった小松帯刀その人だったと

いわれています。

ちなみに、小松は西郷よりも7歳、

大久保よりも5歳年下でした。

当時、身分差にうるさい薩摩では珍しく

開明的な人物で、実力主義者だったともいえます。

若くして死んだ事もですが

功を誇らなかった人柄からもと言われています。

龍馬が生きていれば戊辰戦争はなかったともいわれるが、

もしも小松帯刀が生きていれば

西南戦争の悲劇は防げたのではないかとさえ言われている。


鹿児島市原良町にある小松帯刀屋敷跡には

樹齢約300年といわれる臥竜梅がある。

幕末の偉人たちも見たであろう梅の花。

毎年、春の訪れを伝えてくれているそうだ。

薩摩藩はよそ者の入国をかたくなに拒んだ国だった。

だが、幕末の小松邸からは

龍馬がたしなんだ三味線や、

帯刀が得意とした琵琶の音色が

賑やかに聞かれたかも知れない。


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幕末の長崎で活躍した人~小松帯刀(8)

2010-05-08 15:25:11 | 長崎の歴史
「小松清廉」


(8)


愛妻家で、

新婚時代の安政3年4月23日~5月6日にかけて

当時珍しい新婚旅行で

霧島の栄之尾温泉に滞在した記録がある。

この滞在には千賀の父も同行した。

ちなみに日本初の新婚旅行を行ったとされる龍馬は

寺田屋事件直後の慶応2年(1866)であり、

実際には帯刀清廉のほうが10年早く

新婚旅行を行っていたことになる。


寛容で雄弁明快な人柄で人望が厚く、

若くして薩摩藩の重職に取り立てられた。

西郷隆盛に初めて会いに行った際、

西郷が、身分としては遥かに上とはいえ

自らより7歳若い小松の度量を試そうと、

わざと部屋で横になり小松を待っていたところ、

小松はその姿を見て立腹することなく、

むしろ西郷のために枕を持って来るよう従者に促したため、

西郷はその一言を聞くや居住まいを正し小松に詫び、

忠誠を誓ったという。

新政府においても将来を嘱望された。



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幕末の長崎で活躍した人~小松帯刀(7)

2010-05-06 11:55:14 | 長崎の歴史

「小松清廉」


(7)



清廉は慶応2年(1866)に

千賀の甥・町田申四郎実種を養子として

清緝と称させていた。

清廉の死後、清緝が明治3年(1870)に

家督を継承したものの明治5年(1872)には

清廉と琴の長男で千賀が養育していた清直に家督を譲る。


その後、清直は30歳で隠居。

嫡子・帯刀は祖父・清廉の功により伯爵に叙せられて

貴族院議員をつとめるが、

明治38年(1905)に死去。

家督は清直の次男・重春が相続し、

経國銀行頭取など務めるなど経済界で活躍した。

その後、重春には嗣子がなかったため、

侯爵・西郷従道の7男従志が養嗣子となって家督を相続した。

重春までの墓は鹿児島県日置市の小松家歴代墓所だが、

従志以後の墓所は東京に存する。

大正11年(1922)時の鉄道大臣が

小松重春に品川駅立売営業権を許可している。

これは、小松清廉が慶応3年(1867)に

鉄道敷設建白書を呈上した功績を考慮したことに因んでいる。

これにより小松家は「株式会社常盤軒」として

JR品川駅で食品などの販売を開始し、現在に至っている。


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幕末の長崎で活躍した人~小松帯刀(6)

2010-05-05 13:35:13 | 長崎の歴史
「小松清廉」


(6)



新政府においては、

総裁局顧問、徴士参与や外国事務掛、

外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任した。

フランスが、

江戸幕府の借金を新政府が返済しないなら

横須賀造船所を差し押さえると主張した際、

清廉と大隈重信はイギリスから資金を借りて

フランスに返済して窮地を脱している。

他にも堺事件や浦上四番崩れの交渉を行った。

またグラバーや五代友厚とともに、

日本初の西洋式ドックを備えた小菅修船場を建設した。

明治2年(1869)病気により依願退職。

版籍奉還では、

久光を説得し率先して自らの領地を返上して範を示した。


明治3年(1870)に36歳の若さで大阪にて病死し、

最期は妾の琴(琴仙子)が看取った。

墓地は鹿児島県日置市日吉の南1キロの

祢寝家・小松両家歴代墓所。


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幕末の長崎で活躍した人~小松帯刀(5)

2010-05-03 13:55:08 | 長崎の歴史
「小松清廉」


(5)



慶応3年(1867)城代家老に任じられ

軍事掛と造士館掛等の要職を兼務する。

第二次長州征討には反対し、

慶応3年(1867)の薩土盟約や四侯会議など、

諸藩との交渉に関与した。

討幕の密勅では請書に、

西郷隆盛・大久保利通とともに署名している。

大政奉還発表の際は藩代表として

徳川慶喜に将軍辞職を献策し、

摂政二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。

西郷・大久保とともに薩摩に戻って

藩主島津忠義の率兵上洛を主張する。

上洛の随行が命じられるも、

病によりこれを断念している。

明治2年(1869)

明治維新の功により賞典禄1000石が授けられる。


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