古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎の歴史~天領時代の長崎~16

2013-04-30 04:35:21 | 長崎の歴史
『町年寄』~6


~出島築造~


長崎の出島は幕府の命により、

長崎の有力な町人達25人の出資によって

寛永11年(1634)に造られた。

彼らは出島町人と呼ばれ、

高島四郎兵衛・後藤庄左衛門・

高木作右衛門・高木彦右衛門などの町年寄や

糸割符年寄も含まれていた。

出島の支配は長崎奉行の管轄だが、

出島乙名やオランダ通詞などの運営に関わる地役人は

町年寄の支配下だった。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~15

2013-04-28 06:55:24 | 長崎の歴史
『町年寄』~5


~長崎町年寄~4


町年寄に取立てられた高島了悦・

高木勘右衛門・後藤宗印・町田宗賀ら4人は

いずれも有力なキリシタンでもあった。

しかし、寛永3年(1626)に

長崎の住人に対してキリシタン棄教命令が出され、

長崎奉行の水野守信は、


キリシタンから転宗した長崎代官・末次平蔵や

町年寄の高木作右衛門の協力により、

キリシタン取締りに乗り出した。

この棄教令に従う事を拒否した町年寄の

町田宗賀ジョアンと後藤宗印トメは長崎の町を出た。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~14

2013-04-26 06:15:09 | 長崎の歴史

『町年寄』~4


~長崎町年寄~3

当初は頭人出身の高木・高嶋・

後藤・町田の4人体制だった。

寛永年間に町田家が没落した後は

高木彦右衛門永貞が町年寄に就任し、

元禄10年(1697)に高木彦右衛門貞親が

唐蘭商売元締に任命されると、

外町常行司の薬師寺又三郎種政が町年寄に任ぜられた。

元禄12年(1699)に内町と外町の区別が廃止された時に

外町常行司の福田伝兵衛重好と

久松善兵衛忠辰が加えられて6人制となった。

文政5年(1822)以降は、

高木・高島(2家)・後藤・薬師寺・

福田(2家)・久松(2家)の9人制となった。


彼らの受用高は70俵5人扶持(受容銀は12~29貫目)

大村町の高島家や西浜長の久松家などは、

1000坪以上の大邸宅であった。

長崎会所調役を勤める場合は他に5人扶持を、

年番となった場合は受用銀を25貫目、

添年番は受用銀10貫目が支給された。




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長崎の歴史~天領時代の長崎~13

2013-04-24 03:15:05 | ホームページ更新
『町年寄』~3


~長崎町年寄~2


豊臣秀吉によって長崎奉行に任ぜられた

唐津城主寺沢志摩守広高が、

有力な貿易商であり町衆の指導層でもあった

高木勘右衛門了可・高嶋(高島)了悦・

後藤惣太郎宗印・町田宗賀を頭人に取り立て、

町政の実務を任せた。


頭人が町年寄と改められたのは文禄元年(1592)。

地租を免じられた内町を町年寄が治め、

それ以外の外町を長崎代官の村山等安が支配した。


慶長8年(1603)家康は新年慶賀のため上京した村山等安と

イエズス会のジョアン=ロドリゲス神父に対して、

等安と町年寄4人を改めて

長崎の首長に任じて長崎の統治を委ね、

ロドリゲスにも長崎の支配管理のために

市政に参与することを求めたという。

これにより、秀吉の没後も長崎内町は町年寄が、

外町を代官の村山が治めることとなった。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~12

2013-04-22 05:15:17 | 長崎の歴史
『町年寄』~2


~長崎町年寄~1


鎖国以前の長崎において、

朱印船貿易に携わり、

長崎の町の富裕層でもあったリーダー的な集団を

頭人(とうにん)と呼んでいた。

頭人の発祥は流浪の武士とも

長崎甚左衛門の家士とも言われている。

頭人は、腕力が強く、リーダーとしての資質があり、

また商才のある者たちが長崎で頭角を現し、

イエズス会領・秀吉の直轄領・

徳川幕府の天領と時代の変化に対応しながら、

長崎地下人達のリーダー格となって長崎を治めてきた。

この頭人達が、後の町年寄の先祖である。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~11

2013-04-19 05:05:25 | 長崎の歴史
『町年寄』~1


江戸時代の町政を司る町役人の筆頭に位置するもの。

地域によってその名称は異なり

江戸や長崎、京都、甲府・福井・鳥取・

敦賀・小浜・尾道・酒田などでは町年寄だが、

大坂や岡山・高知・堺・今井・平野・

鹿児島では惣年寄(総年寄)、

名古屋で惣町代、

姫路・和歌山・松江・松坂では町大年寄、

岡崎では惣町年寄頭、

青森では町頭、

新潟では検断と呼んだ。

選任方法は、世襲制の場合と

選挙で決められる場合とがあった。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~10

2013-04-16 06:35:19 | 長崎の歴史
『長崎代官』~10


~代官支配地~3


元禄12年(1699)に内町と外町の区別が廃止され

長崎80町は長崎奉行の支配となった。

それに伴い長崎代官は長崎村以下の郷3ヶ村

(長崎村、浦上山里村、浦上淵村。計約4400石)と

長崎周辺の7ヶ村(茂木村、野母村、高浜村、

川原村、樺島村、日見村、古賀村。計3000石)を支配。

抜荷の取り締まり等も長崎市中同様に行われた。


肥前国高来郡・彼杵郡の天領7ヶ村が

管轄地になったのは明和5年(1768)のことで

寛政11年(1799)に松浦郡内に1万石

文化7年(1810)には更に1万石

同9年(1812)には肥後国天草郡に2万3千石

同13年(1816)には日向に7千石の所管地を与えられた。

幕末の13代作右衛門忠知は

計16万石を管轄する事になった。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~9

2013-04-14 09:45:22 | 長崎の歴史
『長崎代官』~9


~代官支配地~2


長崎代官は当初、

内町とそれに付随する茂木や浦上などを支配し

徴税や行政を執り行った。

しかし、内町が長崎奉行の支配となると

外町年行司(後に外町常行司と改称)2人の補佐のもと

大村藩から上知した外町や長崎村、浦上村などを支配した。

慶安元年(1648)末次平蔵3代目の茂房の時には

野母村・高浜村・川原村の3村が

寛文9年(1669)には茂木村、樺島村、日見村、

古賀村の4村が長崎代官支配となった。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~8

2013-04-12 06:05:27 | 長崎の歴史
『長崎代官』~8


~代官支配地~1


長崎には、地租を免除された内町と

それ以外の外町があった。

内町は、天正16年(1588)秀吉によってイエズス会より収公され

直轄領となった10町で後に増加して23町となった。

外町は、慶長2年(1597)に造成された材木町に始まり

寛永19年(1642)までに市街化した地域で

後に43町となった。

寛文12年(1672)には人口の多い幾つかの町が分割され

内町26町・外町54町の計80町となった。



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長崎の歴史~天領時代の長崎~7

2013-04-07 08:45:10 | 長崎の歴史
『長崎代官』~7


~代官所~長崎代官の屋敷~


長崎代官の屋敷(2065坪)は勝山町にあった。

これは村山等安、末次平蔵らの屋敷地だったものを

引き継いだものである。

代官所には手付や元締手代・手代が置かれ

他にも御船頭2人、御武具御用物蔵預5人、

御米蔵預12人がいた。

また、水主、御用物方、郷村庄屋、能役者、

能太夫などが代官に付属した。



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