『長崎代官』~3
徳川家康の直轄領となった慶長9年(1604)に
等安は家康に謁見し
改めて長崎の代官を勤める事を許された。
その後も等安は貿易により財を蓄えたが
末次平蔵の訴えにより
キリシタンの擁護と大坂の豊臣方に内通した嫌疑で
元和5年(1619)江戸で斬首。
彼の一族も長崎において処刑された。
村山に代わって末次平蔵政直が長崎代官となり
以後4代に渡って代官職を務めるが
延宝4年(1676)に密貿易が発覚し
4代茂朝とその一族や関係者は処罰される。
末次家の処罰後、代官職は長崎の町年寄が代行する。
元文4年(1739)長崎町年寄の高木作右衛門忠与(忠與)が
長崎の近郊の幕府領3000石の代官に任命され
以後は高木家の世襲となった。
古美術崎陽
長崎の歴史
『長崎代官』~2
豊臣秀吉は、天正16年(1588)4月2日に
鍋島直茂を長崎の代官に任命した。
同年6月には寺沢広高と藤堂高虎が奉行に任命され
長崎へ派遣された。
代官の鍋島が長崎の地を常時監視する役目を負い
寺沢と藤堂は海外貿易での秀吉のための買物係と
貿易の監視のために派遣され
取り引きが終わった後は大坂へ帰還した。
文禄元年(1592)には、
朝鮮へ出兵した鍋島に代わり
寺沢広高を代官に任命する。
ただし、寺沢は多忙のため
家老など配下の者を派遣し
長崎の統治を代行させていた。
この頃は長崎に派遣された奉行は
海外の品の購入が主な職務で
長崎の統治は長崎代官が担っていた。
ただし、長崎の地誌類の多くは
初代長崎奉行は文禄元年に代官に就任した寺沢としている。
御免地以外を支配した代官村山等安は
その出自は不明であるが
長崎で朱印船貿易により財をなした商人である。
文禄元年(1592)秀吉に謁見した等安は
長崎の地子銀25貫を納入させる代わりに
御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地の支配を任された。
古美術崎陽
長崎の歴史
豊臣秀吉は、天正16年(1588)4月2日に
鍋島直茂を長崎の代官に任命した。
同年6月には寺沢広高と藤堂高虎が奉行に任命され
長崎へ派遣された。
代官の鍋島が長崎の地を常時監視する役目を負い
寺沢と藤堂は海外貿易での秀吉のための買物係と
貿易の監視のために派遣され
取り引きが終わった後は大坂へ帰還した。
文禄元年(1592)には、
朝鮮へ出兵した鍋島に代わり
寺沢広高を代官に任命する。
ただし、寺沢は多忙のため
家老など配下の者を派遣し
長崎の統治を代行させていた。
この頃は長崎に派遣された奉行は
海外の品の購入が主な職務で
長崎の統治は長崎代官が担っていた。
ただし、長崎の地誌類の多くは
初代長崎奉行は文禄元年に代官に就任した寺沢としている。
御免地以外を支配した代官村山等安は
その出自は不明であるが
長崎で朱印船貿易により財をなした商人である。
文禄元年(1592)秀吉に謁見した等安は
長崎の地子銀25貫を納入させる代わりに
御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地の支配を任された。
古美術崎陽
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