古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

(稲佐お栄)-11

2015-01-26 07:25:12 | 長崎の歴史




     (オロシャ お栄)
明治38年(1905)ロシアと講和が成立。

旅順要塞地区司令官であったステッセル将軍も

乃木大将との水師営会見後、

この年の1月15日、家族一行16名で稲佐に上陸し、
お栄のホテルに3日間滞在した。
お栄は紋付きの礼装で極上の紅茶、菓子、
果物を出し心からもてなしている。
一行は庭先から見える港内の風景を異口同音に


褒め称えたと言う。

一行は1月17日に上海に向け出発している。

長崎の歴史





(稲佐お栄)-10

2015-01-21 06:35:24 | 長崎の歴史



     (オロシャ お栄)
クロパトキンは開戦とともに満州軍総司令官に任ぜられたが、
奉天会戦に敗れたことにより第1軍司令官に降格させられた。
戦後は革命に巻き込まれるなどしたが、最後は小学校教師として生涯を終えている。


日露戦争が始まると彼女の一家は、露探・ラシャメン・非国民などと罵られ、
家に投石され迫害された。

長崎の歴史

(稲佐お栄)-9

2015-01-16 06:05:32 | 長崎の歴史



     (オロシャ お栄)

明治35年(1902)大浦の外国人居留地に

ロシア風ホテルを建てる。
明治36年(1903)6月、
日本とロシアとの関係が悪化の一途を辿りつつある中
ロシアの陸軍大臣クロパトキン
(日露戦争では満州軍司令官)が軍事視察に来日し、
彼女のホテルに21日間滞在する。
クロパトキンはお栄に
「あなたはロシア海軍の母だ」と賛辞を送っている。
クロパトキンは予想以上に進む
日本の近代化と軍備拡張を目の当りにしてこれに驚き、
ロシア宮廷において対日非戦論を説いた・
・・が受入れられることは無かった。

長崎の歴史

(稲佐お栄)-7

2015-01-09 07:05:04 | 長崎の歴史



     (オロシャ お栄)
長崎には4月27日に来て、
5月5日鹿児島を経て神戸へと出発する。

28日から3日間はお忍びで「上野彦馬の店」で
写真を撮ったり、稲佐に上陸し、

5月3日は丸山の芸者を招いて宴会を開くなどした。
お栄はその宴席を取仕切り活躍した。
長崎への公式上陸は5月4日である。

皇太子はこの後5月11日に大津事件に巻き込まれることとなる。

長崎の歴史

(稲佐お栄)-5

2015-01-04 07:25:19 | 長崎の歴史




     (オロシャ お栄)
明治22年(1889)ロシアの極東政策が本格化し


巨大な東洋艦隊が長崎に入港するようになった。
長崎港を見晴らす稲佐の台地に3百坪を借地し、


ホテル・ヴェスナー(春)をつくる。客室21、ロビー、
宴会場、遊技場も備えたホテルでは連日連夜、

海軍士官達によりカルタ遊びや酒宴が繰り広げられた。

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