古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~山中一郎(6)

2010-12-26 13:35:22 | 長崎の歴史

佐賀藩士「山中一郎」


~佐賀の乱(4)~



江藤、中山らは佐賀を脱出して鹿児島に入り

西郷に決起の意志はなかったため、

村田新八に面会したが協力を得られず

今度は土佐へ向かい片岡健吉と林有造に挙兵を訴えた。

ところが、既に手配書が廻っており、

高知県東洋町甲浦で捕縛。

捕吏長の山本守時は江藤に脱走を勧めたが、

江藤は裁判で闘う決意を固めており

これに応じなかったという。

政府軍が佐賀城下に迫ると

島義勇は佐賀で討ち死にするつもりであったが、

実弟の副島義高らが

「境原で官軍を防ぐので再起を期せ」

と無理矢理脱出させた。

島も、島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かったが、

捕縛された。


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幕末の長崎で活躍した人~山中一郎(5)

2010-12-24 07:35:41 | 長崎の歴史


~佐賀の乱(3)~



明治6年2月1日、

憂国党に属する武士が

官金預かり業者である小野組におしかけ、

店員らが逃亡するという事件が起こった。

これは即内務省に電報で通知され、

2月4日、政府は

熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令。

これが佐賀の乱の始まりです。

しかし、半島への進出の際には

先鋒を務めると主張した征韓党と、

封建制への復帰を主張する反動的な憂国党は

もともと国家観や文明観の異なる党派であり、

主義主張で共闘すべき理由を共有してはいなかった。

そのため両党は司令部も別であり、

協力して行動することは少なかった。

また、戊辰戦争の際に

出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を

中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力したほか、

武雄領主鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、

江藤らの目論んだ

「佐賀が決起すれば

 薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」

という考えは藩内ですら実現しなかった。


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幕末の長崎で活躍した人~山中一郎(4)

2010-12-20 11:45:28 | 長崎の歴史
                     江藤新平

佐賀藩士「山中一郎」


~佐賀の乱(2)~

征韓論問題で下野した

前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵などの征韓党と、

前侍従・秋田県権令島義勇、

副島義高らを擁する憂国党による

旧佐賀藩士を中心とした反乱であり、

以後続発する士族による乱の発端となった。

乱を率いた江藤と島は

そもそも不平士族をなだめるために

佐賀へ向かったのだが、

政府の強硬な対応もあり決起することになる。


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幕末の長崎で活躍した人~山中一郎(3)

2010-12-15 17:25:58 | 長崎の歴史

佐賀藩士「山中一郎」


~佐賀の乱(1)~

佐賀の乱は明治7年(1874)2月に

江藤新平・島義勇らをリーダーとして

佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

佐賀の役、佐賀戦争とも。

不平士族による初の大規模反乱であったが、

電信の情報力と汽船の輸送力・速度を

活用した政府の素早い対応もあり、

激戦の末に鎮圧された。

深堀武士
江藤新平

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幕末の長崎で活躍した人~山中一郎(2)

2010-12-06 11:55:13 | 長崎の歴史
                                        佐賀の乱慰霊碑

佐賀藩士「山中一郎」

林有造等と鹿児島へ赴き西郷の動向を探ったり

長崎で武器の調達にあたった。

佐賀の乱に敗れてからは

佐賀を脱出する江藤に同行し、

鹿児島で村田新八に面会したが協力を得られず、

さらに四国へと逃れたが土佐にて捕えられた。

乱後の裁判にて斬首。

享年27。


 ~辞世の詩~

  苦学多年業未成 
 
  一朝謀敗死元軽 
 
  二十五年如一夢 
 
  誰使後人継我誠



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幕末の長崎で活躍した人~山中一郎(1)

2010-12-02 12:15:08 | 長崎の歴史



佐賀藩士山中 一郎(やまなか いちろう)

嘉永元年(1848)~明治7年(1874)

佐賀の乱の首謀者の一人。

嘉永元年(1848)佐賀城下水ヶ江鷹匠小路に

山中四三郎の長男として生まれる。

幼少時から秀才の誉れ高く、

藩校弘道館では寮監となったほか、

江藤新平や副島種臣にも学び、

江藤の弟子の中では

香月経五郎と並び藤門の双璧と呼ばれた。

また、慶應4年には

佐賀藩が長崎に設立した英学校致遠館に入学

フルベッキ写真にも大隈重信らとともに写っている。

戊辰戦争には参加しておらず、

明治4年に藩命によりドイツ・フランスに留学し

政治・経済を学んだ。

明治6年に帰国

列国の形勢に関する復命書

「海外視察御届」を政府に提出

高い評価を受けた。

明治6年政変により江藤新平が職を辞したため

これに同行し佐賀に戻る。


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