五代 友厚-121 2016-09-30 07:25:16 | 長崎の歴史 五代邸 日本銀行大阪支店五代友厚の最初の自邸跡は、 現在の大阪市西区靱本町にある 「大阪科学技術館」である。 昭和35年まで残っていたが 大阪科学技術センタービルの建設により取り壊され、 現在は大阪科学技術館として姿を変えている。 新築自邸跡は、現在の大阪市北区中之島にある 「日本銀行大阪支店」である。 長崎の歴史
五代 友厚-120 2016-09-28 07:35:04 | 長崎の歴史 五代の婿養子が商議員へ 1889年(明治22年)からある時期において、 大阪商業講習所から4番目の校名にあたる 「市立大阪商業学校」の商議員のなかに、 五代友厚の長女・武子の夫である 「五代龍作(旧姓・九里)」が名を連ねている。 市立大阪商業学校の敷地や商議員など、 このような歴史の断片を 掘り起こして改めて想起されるのは、 創立後の大阪市立大学は、 五代友厚と深い縁で結ばれていたということがわかる。 長崎の歴史
五代 友厚-119 2016-09-26 07:15:08 | 長崎の歴史 将来の財政基盤を強化するために、 再び五代が筆頭の創立員となり 大阪府知事に建言書を提出し、 明治15年に大阪府立商業講習所と改称される。 明治18年3月、 文部省からの多額の補助金を得て、 大阪府立商業学校に昇格し、 明治21年、大阪市が誕生したのを機に、 大阪市立商業学校となった。 この学校はその後、大阪高等商業学校、 大阪商科大学に昇格・発展し、 現在の大阪市立大学および 市立天王寺商業高校の基礎となった。 長崎の歴史
五代 友厚-118 2016-09-24 06:55:54 | 長崎の歴史 五代は、 明治維新の3年前の1865年に森有礼らを選抜し 、 7か月にわたって英仏を視察して産業や 学校・病院の仕組みを輸入し、 森は1875年に東京で商法講習所を開設した。 私立大阪商業講習所では、 簿記学、経済学、算術、習字、英語、 中国語を中心にカリキュラムが組まれた。 簿記学は必須で毎日2時間、 算術も必須で毎日1時間、 英語は英会話を中心に授業が行なわれていた。 中国語は、 支那学校と提携して授業を交換していた。 長崎の歴史
五代 友厚-117 2016-09-22 04:05:38 | 長崎の歴史 当時の入学金は1円であり、五代は多額の寄付金、 創立費を出している。 『大阪市立大学100年史』によれば、 五代友厚と福沢諭吉の意を受けた加藤政之助が、 明治12年8月に五代がオーナーを務める大阪新報社に 「大阪に商業学校を設置する社説」を発表した、 と記述されている。 五代は近代国家の建設のためには、 商業学校は必須と考えていた。 長崎の歴史
五代 友厚-116 2016-09-20 05:35:09 | 長崎の歴史 大阪商業講習所(現大阪市立大学)創設 大阪商業講習所跡 大阪市大杉本キャンパス簿記、 商法学(商学)などを教えるため学校をつくるため、 五代は筆頭の創立員となって、 鴻池善右衛門、広瀬宰平、 杉村正太郎らが加わり、明治13年11月、 私立大阪商業講習所が設立された。 長崎の歴史
五代 友厚-115 2016-09-18 06:15:44 | 長崎の歴史 もっとも開業当初、定期取引に付した物件は、 秩禄公債、新公債、 旧公債の三種で、 間もなく金禄公債も加えられたが、 株式会社はわずかに 二、三の国立銀行と堂島米会所しかなく、 しかも資本金はいずれも 30万円以下のものだったため、 定期取引に付すべき株式はあまりなく、 12年秋には、金銀貨幣取引も行うようになり、 一時盛況となったが、 14年には半額減資して 資本金10万円としている。 長崎の歴史
五代 友厚-114 2016-09-16 07:35:02 | 長崎の歴史 大阪株式取引所の創立株主は130名にのぼった。 友厚は所有株数150株(持株率7。5%) で筆頭株主となったが、 自らは役員に加わらず、 渋沢栄一(第一国立銀行)系の 中山信彬を頭取に推した。 五代と渋沢という東西の両雄はすでに 明治6年頃から、 このような関係を持っていたのである。 長崎の歴史
五代 友厚-113 2016-09-14 05:25:16 | 長崎の歴史 ・・・会社に関する義務を果たすことはもちろん、 会社外における普段の付き合いにあっても、 お互い親密にし、友情をもって、 互いに助け合わなければならないと、 私は考える次第であります」 友厚の経営哲学・理念を明確に表した発言といえよう。 友厚は6月4日、創立願書を大蔵卿大隈重信に提出し、 同月17日許可がおりた。 長崎の歴史
五代 友厚-112 2016-09-11 08:55:04 | 長崎の歴史 ちょっと見ただけでも 国民の信用が得られるようにしなければなりません。 昔の人は『成立の難き(かたき)は天にのぼるがごとく、 覆墜の易きは燎毛のごとし』といっております」 「会社が栄えるか滅びるか、評判をよくするか悪くするかは、 その経営に携わるわれわれが、これを招き、 これを迎えるものであることを心に銘じ、辛抱と努力を続けて、 会社の組織をしっかりしたものにしなければなりません。 長崎の歴史