古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「木下逸雲」~7

2012-06-29 16:09:43 | 長崎の歴史
補足~2


上野彦馬は家業を継ぐには洋学が必要であったため、

後見役として面倒を見ていた木下逸雲のはからいで

豊後国日田の広瀬淡窓の私塾、咸宜園へ入門する。

嘉永6年(1853)4月24日16歳の時である。



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幕末の長崎で活躍した人~「木下逸雲」~6

2012-06-22 17:05:01 | 長崎の歴史
補足~1


黄檗僧の渡来とともに、

長崎には北画の系統が伝えられましたが、

当初は一部の人がそれを学んだに過ぎませんでした。

享保16年の沈南蘋の渡来と前後して、

伊孚九や費漢源が来舶して南画の画法を伝えると、

長崎の画人達に注目され、

一方では、中国趣味を尊んだ

文人達の間に定着して行きました。

さらに、19世紀の中頃になると、

江稼圃などの渡来によって、

長崎の南画は本格的なものとなり、

長崎三画人と呼ばれた鉄翁祖門、

木下逸雲、三浦梧門などによって大成されました。

そして、これら南画は、

文人画とも呼ばれて全国に広まり、

池大雅・与謝蕪村・田能村竹田・谷文晁などが活躍、

江戸時代後期のわが国画壇に

主要な地位を占めるようになりました。

当時長崎は全国から画を志す画人が多く集まりました。




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幕末の長崎で活躍した人~「木下逸雲」~5

2012-06-16 14:06:45 | 長崎の歴史


また白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、

自ら絵付けも行っている。

長崎円山花月楼清譚会の世話役を務め、

日中文化交流を促した。


慶応2年(1866)4月、京阪・江戸に漫遊し、

同年8月横浜から長崎行きの

イギリス船黒龍号に乗船するも、

玄界灘で海難事故に遭い、

帰らぬ人となった。

享年68。

墓は禅林寺内墓地にある。




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幕末の長崎で活躍した人~「木下逸雲」~4

2012-06-11 11:43:04 | 長崎の歴史
画僧鉄翁祖門と画を共に学び生涯の友となった。

逸雲は筆が早く、

遅筆の鉄翁と対極をなした。

田能村竹田・頼山陽・広瀬淡窓など文人と交わった。


門人に、河村雨谷・津田南竹・池島村泉。

また姉の小蘭、甥の秋塘も画家である。


逸雲は多芸多才で知られ、

書・篆刻を能くし、

琵琶の演奏・制作に巧みで、

煎茶をたしなみ、

藤原相宰の名で優れた和歌を詠んだ。



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幕末の長崎で活躍した人~「木下逸雲」~3

2012-06-05 13:56:34 | 長崎の歴史
画は、はじめ唐絵目利の石崎融思に学び、

来舶清人の江稼圃・張秋谷からは

南画の技法を修めた。

その後も清人陳逸舟、徐雨亭にその画風を学んだ。

さらに雪舟、狩野派・大和絵・

円山四条派などの諸派や

西洋画の画法を熱心に研究し、

様々な技法を取り入れた。





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幕末の長崎で活躍した人~「木下逸雲」~2

2012-06-01 15:01:19 | 長崎の歴史




長崎八幡町乙名(町役人)木下清左衛門勝茂の

三男に生まれる。

木下家は本姓藤原氏で、

代々八幡町の乙名職を勤めた家柄

文化14年(1817)18歳で

兄潤太郎従賢の跡を継いで乙名となる。

文政12年(1829)30歳で辞職し、

その役を兄の子勇之助隆衡に譲る。

自身は元来関心のあった医師を生業とし、

医門名を得生堂と称した。

蘭医オットー・モーニケによって伝えられた種痘術の

普及に努めている。



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