佐賀藩士「副島種臣」補足1
「マリア・ルス号事件」
明治5年(1872)7月13日夜半
一人の男が暗闇の横浜港に飛び込んだ。
これが事件の発端。
幸い男は近くに停泊中の
イギリス軍艦「アイアン・デューク号」に救われたが
その様子を不審に思った船員が問いただしたところ
男は船内での苛酷な取り扱いに耐えかねて逃げ出した清国人と判明。
ペルー船籍のマリア・ルス号(Maria Luz)は
マカオを出航しペルーに向かって航行中
暴風で損傷した船体を修理するため横浜港に停泊。
船には230人の清国人移民が乗っていたが
船底に押し込められ
十分な食事も与えられず
折からの暑さで船内は悲惨な状態となっていた。
この事がイギリス代理公使から
外務卿(外務大臣)副島種臣に伝えられる。
当時ペルーと日本は条約を結んでおらず
清国とは条約調印済みだが未発効の状態。
維新後間もない不安定期にあった政府は
国際紛争を恐れ、ひたすら及び腰であった。
しかし副島は英米両国の支持のもと
法権は日本にあるとして
神奈川県参事(現在の知事)大江卓に船長の裁判を命じた。
その間清国人全員を上陸させ手厚く保護した。
古美術 崎陽
佐賀藩士「副島種臣」
明治6年(1873)10月の征韓論争に敗れたため
いったん下野して、板垣退助らと共に
民撰議院設立建白書を提出した。
しかしその後の自由民権運動には参加しなかった。
西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在していた。
明治11年(1878)宮内省に出仕して
宮内卿と同格の一等待講。
明治17年(1884)伯爵。
明治20年(1887)に宮中顧問官、
明治21年(1888)に枢密顧問官、
明治24年(1891)に枢密院副議長になり
明治25年(1892)には第1次松方内閣において
3ヶ月間内務大臣を務める。
明治14年(1881) 勲一等旭日大綬章受章
明治38年(1905) 勲一等旭日桐花大綬章受章
学識の深さで明治天皇の学問相手(侍講)や
内務大臣などを歴任しました。
なお「蒼海」などの号で近代書家、
さらに漢詩人としても有名。
墓は佐賀の高伝寺のほか
東京の青山墓地にもあります。
古美術 崎陽
佐賀藩士「副島種臣」
明治維新後は慶応4年(1868)
新政府の参与・制度取調局判事となり
福岡孝悌と『政体書』起草に携わる。
明治2年(1869)に参議
明治4年(1871)に外務卿となり
マリア・ルス号事件において活躍。
助けを求めた中国人を解放したことで
「正義人道の人」と国際的に支持され
明治6年(1873)には
前々年に台湾で起きた宮古島民殺害事件
の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として
清の首都北京へ派遣され
日清修好条規批准書の交換
同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈
および交渉にあたった。
この間に清朝高官と詩文の交換を行い、高い評価を得る。
古美術 崎陽
佐賀藩士「副島種臣」
嘉永3年(1850)
兄の枝吉神陽が中心となって結成した
楠公義祭同盟に加わる。
嘉永5年(1852)京都に遊学
漢学・国学などを学ぶ。
この間に矢野玄道らと交わる。
元治元年(1864)藩が長崎に設けた致遠館の
英学生監督となり英語などを学ぶ。
慶応3年(1867)大隈重信と脱藩し
勤王の志士として活動するが
捕らえられて佐賀に送還され謹慎処分を受ける。
古美術 崎陽
佐賀藩士「副島種臣」(そえじま たねおみ)
文政11年(1828)~明治38年(1905)
官僚、政治家、書家 勲一等、伯爵、
通称は二郎。
号は蒼海、一々学人。
父は佐賀藩の藩校・弘道館の教授で
国学者・枝吉南濠。
兄は国学者・枝吉神陽。
幼名を二郎。
安政6年(1859)に同藩の副島利忠の養子となる。
父・兄の影響により、
早くから尊王攘夷思想に目覚める。
弘道館で学び、この間江藤新平や大木喬任と交わる。
古美術 崎陽
佐賀藩士「山中一郎」
~佐賀の乱(8)~
徴兵による鎮台兵は
武士たちとも互角に渡り合えることを示したが、
全体的にみると
徴兵による兵隊だけでは間に合わず、
士族召集兵によって鎮台兵の不足を満たざるをえなかった。
また、不慣れな軍装による長距離の遠征で
兵の多くが靴ずれを起こし進軍が遅れた例もある。
また電信も、
迅速な情報の伝達に威力を発揮したが、
最初期に命令を受けた熊本鎮台への電信は
佐賀を経由して伝えられたため、
当然の如く命令は佐賀軍の知ることとなるなど
幾つかの問題点も発生している。
古美術 崎陽
佐賀藩士「山中一郎」
~佐賀の乱(7)~
薩摩や長州など
諸藩の武士で構成された部隊が
官軍を編成した戊辰戦争と違い、
明治6年(1873)に制定された徴兵令による国民軍が
軍隊を編成して初めての大規模な内戦となった。
また、1871年から1876年までの短期間
旧日本海軍に存在した海兵隊も戦闘に参加した。
このほか、蒸気船による迅速な行軍や
電信技術なども活用されている。
古美術 崎陽
~佐賀の乱(6)~
その後も佐賀では士族らを中心に不穏な動きが続き、
西南戦争などに合流する士族もあったが、
佐賀で反乱が起こることはなかった。
反乱後しばらく庶民の間で、
江藤の霊を信仰すると眼病が癒り、
訴訟ごとがスムーズに決着するとの風聞が流れた。
大正8年(1919)の特赦により
江藤や島も赦免され、叙任された。
地元有志によって佐賀城近くの水ヶ江に
佐賀の乱の戦没者の慰霊碑が建てられた。
古美術 崎陽