五代 友厚-44 2016-03-31 04:45:05 | 長崎の歴史 鹿児島紡績所 旧鹿児島紡績所技師館イギリス到着後、 五代と新納久脩(にいろひさのぶ)は 当時世界最大の紡績機械メーカーであった プラット&ブラザーズ社に工場の設計と技術者の派遣を依頼し、 1867年(慶応3年)、藩主島津忠義によって集成館の西隣に 日本初の洋式機械紡績工場である鹿児島紡績所が建設された。 長崎の歴史
五代 友厚-43 2016-03-28 06:25:55 | 長崎の歴史 その主な内容には (1)米・海産物などを上海に輸出し、これによって利益を得よ。 (2)その利益で、製糖機械を購入し砂糖を製造、販売して収益を得よ。 (3)砂糖輸出で得た収益で留学生を派遣、 そして同行する視察員が軍艦、大砲、小銃、紡績機械を買い付けること。 (4)貿易だけでなく、 学校・病院・化学・印刷・鉄道・電話設備など産業革命の技術を学ぶこと。 ということが書かれており、 留学生についても 「英仏両国留学生を16名並びに通訳1名を選ぶ」と書かれている。 このような五代の入念な計画には誰もが感服したという。 長崎の歴史
五代 友厚-42 2016-03-26 05:45:40 | 長崎の歴史 その後五代は「五代才助上申書」を藩に提出し、 15名の留学生をイギリスへ派遣する。 この「五代才助上申書」とは、 富国強兵の方法を上申しているものだが、 留学費用の捻出方法や 購入する軍備や機械などについても細かく言及されている。 長崎の歴史
五代 友厚-41 2016-03-24 06:15:41 | 長崎の歴史 五代才助の上申書イギリス海軍の捕虜となったが、 通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において、 小舟にてイギリス艦を脱出、江戸に入る。 長崎の歴史
五代 友厚-40 2016-03-21 05:25:10 | 長崎の歴史 英軍に勝算はなく退避せよ。」 五代の熱弁と暴風雨が功を奏し被害はイギリス軍が多く、 五代の交渉力により、薩英戦争は解決した。 (佐江衆一『士魂商才』を参照)[要出典] 長崎の歴史
五代 友厚-39 2016-03-19 06:35:52 | 長崎の歴史 五代は購入した蒸気船を失っては 対外貿易の手段を失ってしまうとして、 3隻の汽船を避難させ五代自らが命がけで イギリス船に乗り込み交渉した。 「地上戦となれば薩摩の10万人の侍、 命を懸けて戦いに臨む。 長崎の歴史
五代 友厚-38 2016-03-17 07:05:19 | 長崎の歴史 イギリス海軍は7隻で薩摩湾を南進しながら アームストロング砲の一斉攻撃を敢行してこようとし、 対する薩摩は五代が艦長となり蒸気船に 古い大砲を積んでいる3隻の船で迎え撃った。 しかし、アームストロング砲が4キロ飛ぶのに対し、 日本の大砲は1キロしか飛ばず、劣勢だった。 長崎の歴史
五代 友厚-37 2016-03-15 06:42:46 | 長崎の歴史 その内容とは、 幕府に対し34万両と 薩摩藩に対し7万両の賠償金を請求するというものだった。 この請求に対し、政府は応諾し賠償金を払ったが 薩摩藩はその請求を拒絶した。 このことがきっかけとなり、 イギリス艦隊7隻が薩摩藩を攻撃してきたため、 薩英戦争となった。 長崎の歴史