古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~楠本イネ

2010-02-27 11:35:07 | 長崎の歴史
(30)


シーボルトの娘「楠本イネ」~6


補足「石井宗謙」


石井 宗謙(いしい そうけん)

寛政8年(1796)~文久元年(1861)

江戸時代末期の医学者。


美作国真嶋郡旦土村の医者の子として生まれる。

15歳の時父を亡くすもののそのまま医学を修めた。

文政6年(1823)から長崎に渡り

シーボルトの鳴滝塾でオランダ語を学ぶ。

師シーボルトから『日本産昆虫図説』や

『日本産蜘蛛図説』『鯨の記』などの蘭訳を命ぜられるなど、

語学力に優れていた。

シーボルト事件後も長崎に逗留したが、

後にふるさとにもどり開業した。


天保3年(1832)美作勝山藩の藩医に就く。

その後藩医を辞し、備前国岡山で開業。

弘化2年(1845)から二宮敬作の勧めもあり、

師シーボルトの娘、楠本イネを預かり

産科医としての技術や知識をおよそ7年に渡り教える。

嘉永5年(1852)イネは長崎で長女高子を産む。



嘉永6年(1853)江戸に赴き

再び勝山藩に藩医として働き

外国語の知識を買われて、

幕府の通詞、外国文書の翻訳者の職を得る。

安政4年(1857)の江戸神田の種痘所開設に

参加、協力をしている。



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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~楠本イネ

2010-02-26 12:45:52 | 長崎の歴史
(29)


シーボルトの娘「楠本イネ」~5


補足「楠本高子」


楠本 高子(くすもと たかこ)

嘉永5年2月7日(1852)~昭和13年(1938)

シーボルトの孫娘で楠本イネの娘。

結婚後の改姓により「三淵高子」

「山脇高子」「山脇たか」とも言われる。


高子は不幸な出生で、

当初は「タダ子」とよばれていた

13歳まで長崎の祖母・お滝の元で育つ。

幼少時は琴や三味線、舞など芸事に熱心であり、

医者を嗣ぐことを期待していたイネを嘆かせていたという。

14歳の時に母の師・二宮敬作の縁により

宇和島藩の奥女中として奉公を始める。


慶応2年(1866)三瀬諸淵と結婚。

夫の三瀬諸淵はシーボルト門下の医者で、

二宮敬作の甥に当たった。

明治10年(1877)に三瀬諸淵に先立たれた後、

異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ。

しかし、その中で医師・片桐重明との間に

周三(後にイネの養子)を生む事態となり、

医業の道は断念した。

その直後に医師・山脇泰助と再婚、

一男二女を生むが、結婚7年目に先立たれた。

その後は叔父の

ハインリッヒ・フォン・シーボルトの世話を受け、

東京で母のイネと共に暮らした。

以後は幼少時に習った芸事の教授をして生計を立てる。


松本零士の先祖が三瀬諸淵の同僚で、

高子と会いとても印象に残り、

その話を零士が聞き継いだ為に、

無意識に作品に出てくる女性のモデルとなっていたと

松本零士自身が語っている。



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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~楠本イネ

2010-02-25 14:45:19 | 長崎の歴史
(28)


シーボルトの娘「楠本イネ」~4


明治17年(1884)医術開業試験の

門戸が女性にも開かれるが、

既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、

以後は産婆として開業する。

62歳の時、娘高子一家と同居のために

長崎の産院も閉鎖し再上京、

医者を完全に廃業した。

以後は弟ハインリッヒの世話となり余生を送った。

1903年、鰻と西瓜の食べ合せによる食中毒のため

東京の麻布で亡くなる。

享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。

イネは生涯独身だったが、

石井宗謙との間に、娘の楠本高子(タダ)がいる。

楠本高子の懐妊は、

石井宗謙にレイプされたためのものである。

彼女は師事していた石井宗謙に深く失望し、

一人出産し、生まれてきた私生児を

「ただの一度で出来た子・タダ」と名付けた。

後年、タダは宇和島藩主伊達宗城により、

改名を指示され「高」と名乗る。

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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~楠本イネ

2010-02-24 14:35:57 | 長崎の歴史
(28)


シーボルトの娘「楠本イネ」~4


明治17年(1884)医術開業試験の

門戸が女性にも開かれるが、

既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、

以後は産婆として開業する。

62歳の時、娘高子一家と同居のために

長崎の産院も閉鎖し再上京、

医者を完全に廃業した。

以後は弟ハインリッヒの世話となり余生を送った。

1903年、鰻と西瓜の食べ合せによる食中毒のため

東京の麻布で亡くなる。

享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。

イネは生涯独身だったが、

石井宗謙との間に、娘の楠本高子(タダ)がいる。

楠本高子の懐妊は、

石井宗謙にレイプされたためのものである。

彼女は師事していた石井宗謙に深く失望し、

一人出産し、生まれてきた私生児を

「ただの一度で出来た子・タダ」と名付けた。

後年、タダは宇和島藩主伊達宗城により、

改名を指示され「高」と名乗る。


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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~楠本イネ

2010-02-23 12:25:13 | 長崎の歴史
(27)


シーボルトの娘「楠本イネ」~3


ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、

混血児であったゆえの差別を受けながらも

宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。

「失本イネ」という名を楠本伊篤と改める。

失本とは、父シーボルトの名を漢字に当てたものであった。

明治4年(1871)異母弟にあたるシーボルト兄弟

(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)

の支援で東京は築地に開業したのち、

福沢諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、

金100円を下賜され

明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会うなど、

その医学技術は高く評価された。

異母弟ハインリッヒとその妻・岩本はなの

第一子の助産も彼女が担当した。

明治8年(1875)に医術開業試験制度が始まり、

女性であったイネには受験資格がなかったためと、

晧台寺墓所を守るため、

東京の医院を閉鎖、郷里・長崎に帰郷する。


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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~楠本イネ

2010-02-22 16:15:15 | 長崎の歴史
(26)


シーボルトの娘「楠本イネ」~2


イネは、シーボルト門下の

宇和島藩の二宮敬作から医学の基礎を学び、

石井宗謙から産科を学び、

村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。

安政6年からは

ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから

産科・病理学を学び、

文久2年からはポンペの後任

アントニウス・ボードウィンに学んだ。

後年、京都にて大村が襲撃された後には

ボードウィンの治療のもと、

大村を看護し、その最期を看取っている。

1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって

追放処分が取り消され、

1859年に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、

西洋医学(蘭学)を学ぶ。

父シーボルトは、長崎・鳴滝に住居を構え昔の門人や

娘・イネと交流し日本研究を続け、

1861年幕府に招かれ外交顧問に就き

江戸でヨーロッパの学問なども講義している。

この間、シーボルトは家政婦として

母お滝・イネが雇ったシオとの間に子をもうけ、

イネを深く失望させる。



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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~楠本イネ

2010-02-20 11:35:37 | 長崎の歴史
(25)


シーボルトの娘「楠本イネ」



楠本 イネ(くすもと いね)

文政10年(1827)~明治36年(1903)

日本人初の女性で西洋医学を学んだ産科医。

オランダ商館医であった

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」

の娘である。「楠本」は母・楠本瀧の姓。



母の瀧(お滝)は、商家の娘であったが、

当時、出島へ入る事が出来た女人は遊女に限られており、

丸山町遊女で源氏名「其扇」として出島に出入りし、

シーボルトとの間にイネを産む。

イネの出生地は長崎銅座町とされており、

シーボルト国外追放まで、出島で居を持った。

当時の出島での家族団欒の様子が

川原慶賀の絵画に残っている。

父シーボルトは文政11年(1828年)、

国禁となる日本地図や

数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の

国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、

イネが2歳の時に国外追放となった。



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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~川原慶賀

2010-02-18 11:45:26 | 長崎の歴史
(24)


シーボルトお抱え絵師

「川原慶賀」~6



川原慶賀がどんな人物だったのかについては、

残された作品の数とは逆に、

資料も少なくたいへん謎が多い。

本人の肖像画もありません。

長崎画壇の中心的存在だった

地役人である唐絵目利の文献資料にも

慶賀の名は一切出てきません。

これは厳しい身分制度の時代、

慶賀の身分が一介の町絵師にすぎなかった

からだといわれています。

唐絵目利は日本側の絵師として西洋の文物を描き

慶賀は西洋側の絵師として日本を描いた

といえます。

シーボルトの注文に応じ、

踏絵、端午の節句、精霊流し、ハタ(凧)揚げなど

長崎の「年中行事」、

また出生から墓参りまでの「人の一生」、

「職人尽くし」、「動植物」など、

日本や長崎の姿を詳細に描きました。

シーボルトは、これらの資料で

日本をヨーロッパに紹介し、

日本研究の第一人者となりました。



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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~川原慶賀

2010-02-17 12:25:13 | 長崎の歴史

(23)


シーボルトお抱え絵師

「川原慶賀」~5


慶賀は伝統的な日本画法に西洋画法を取り入れていた。

また、精細な動植物図については

シーボルトの指導もあった。

シーボルトは植物研究のための標本デッサンを

正確に描くためには

どうしても西洋画法に精通した絵師が必要であった。

そのためヴァタビア総督に画家の派遣を要請している。

この要請に応えて文政8年(1825)来日したのが

薬剤師のビュルガーと

専門の画家ではないものの絵心のあった

デ・フィレニューフェであった。

慶賀は、このデ・フィレニューフェから

西洋画法の手ほどきを受けることとなる。

日本に現存する作品は約100点だが、

オランダに送られヨーロッパ各地に分散した絵図は

6000-7000点ともいわれている。

慶賀が描いた動植物図のほとんどはオランダに送られ、

シーボルトらの著作である

『日本動物誌』等の図として利用された。

標本がなく、慶賀の写生図をもとに

記載されたウミヒゴイなどの例もある。

これらはライデン国立自然史博物館に所蔵されているが、

その精密な図は

今猶生物学者の使用に耐える標本図となっている。

動植物図以外にも

長崎をはじめ日本各地の風俗画、風景画、

肖像画などが多数残されている。

唐蘭館図は長崎歴史文化博物館所蔵で、

国の重要文化財に指定されている。


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