鹿児島市の泉公園にある
銅像昭和36年(1961年)、
追悼満75周年記念として故郷鹿児島に
五代友厚銅像が建立される。
平成16年(2004年)12月1日、
大阪証券取引所の新ビル完成時に、
五代友厚銅像が建立される。
長崎の歴史
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五代友厚の葬儀は、市電も御堂筋もまだない、
北区東区西区南区だけの大阪市の人口40万、
今でいえば北は淀川から南は大和川まで、
御堂筋パレード以上の葬儀が中之島で行われた。
それほど、大阪に尽くした功績は偉大だった。
長崎の歴史
五代友厚の葬儀は、市電も御堂筋もまだない、
北区東区西区南区だけの大阪市の人口40万、
今でいえば北は淀川から南は大和川まで、
御堂筋パレード以上の葬儀が中之島で行われた。
それほど、大阪に尽くした功績は偉大だった。
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江戸後期に薩摩藩士の子として生まれ
明治初期に活躍した大実業家の五代友厚の墓である。
阿倍野墓地は見渡す限り墓石で埋め尽くされているものの、
五代友厚の墓は他より背が高く、
献じられたたくさんの石灯篭に囲まれているので、
比較的簡単に見つけ出すことができる。
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墓所・霊廟・銅像
阿倍野筋4-19にある大阪市設南霊園
阿倍野墓地 顕彰碑明治18年(1885年)10月2日、
阿倍野の墓地に従五位勲四等五代友厚墓として葬られる。
阿倍野区の阿倍野筋4-19にある
大阪市設南霊園(阿倍野墓地)の
中央にランドマークのようにそびえているのが、
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大阪商船、阪神電鉄、播磨水力電気、
朝鮮電気などの重役を務めたほか、
第四十二銀行や北浜銀行の整理で辣腕を振るう一方、
個性的な性格から大阪財界の変人とも言われた。
その息子である野村正二郎(野村維章男爵家へ養子)、
杉村正三郎兄弟は日本サッカーが初めて国際試合で勝利した際
(1927年第8回極東大会フィリピン戦)の出場メンバーで、
のちに正二郎は日本人初のワールドカップ観戦記を認め、
日本サッカー協会の理事も務め、
正三郎は日本代表選手として活躍した。
長男 - 秀夫
次男 - 友太郎
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息子の土居保太郎(1898-?)は、
子爵・大給近孝の娘・幸子と結婚し、
内閣府の文書係となり、
有識故実を調査する宮内官として欧州にも滞在、
高松宮付事務官を務めた。
四女 - 杉村久子(1883-1945)
船場の商家・杉村商店の杉村正太郎に嫁ぐ。
杉村は、鴻池や住友といった
豪商と肩を並べた素封家で
両替商の「錫正(錫屋)」の息子で、
家業の財力を元に杉村倉庫を創業し、
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衆議院議員、
大阪商工会議所第7代会頭を務めた)の養女となり、
1896年に宇和島藩主・伊達宗徳の五男・剛吉郎
(1870--1949)を婿にして土居家を継いだ。
遺稿句集として『松乃華』がある。
剛吉郎は、阪東土地社長,大阪天王寺土地相談役、
阪神海岸電気鉄道の発起人などを務めた。
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