古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

五代 友厚-58

2016-04-30 06:35:21 | 長崎の歴史



明治6年(1873年)に五代友厚に


浜寺公園へ案内された大久保は、

堺県令・税所篤が園内の松を伐採して
住宅地として開発しようとするのを知り、
「音に聞く 高師の浜のはま松も
世のあだ波は のがれざりけり」
と反対する歌を詠んだ。
税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。
なお、浜寺公園の入り口付近に
この時に詠んだ歌が、

「惜松碑」として顕彰されている。

      長崎の歴史


五代 友厚-55

2016-04-23 05:55:06 | 長崎の歴史



大久保利通はかなり前から
大阪遷都を主張していたので、
大阪が帝都になる可能性はかなり
濃厚と見られていた。

造幣局は大阪に建設され、

舎密局(も大阪に設置されて
国家の近代化は進みつつあったが、

前島密の進言で江戸遷都が決定的となり、

5月には江戸は東京と改称された

(大久保利通:慶応4年1868年1月23日、
太政官にて大阪への遷都を主張する)。
これにより、大阪帝都の夢は破れてしまった。

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五代 友厚-53

2016-04-19 05:55:19 | 長崎の歴史



そして五代友厚は、

現在の大阪市立大学の源流である

大阪商業講習所を設立し、
日本の教育制度の充実に力を注いだ。

大阪遷都(大久保利通と
五代友厚とのエピソード)
1868年(慶応4年)1月、
新政府で遷都機運あるなか、
参与大久保利通(39歳)は、
因習の京都を離れ、
交通の開けた大坂以外に
首都はないと大坂遷都を提案し、

これに長州の木戸孝允が賛成。
いったん決まるが、公家、
京都市民の猛反対を受け、
その後、遷都しなくても衰退の

心配ない大坂から江戸に決定する。

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五代 友厚-51

2016-04-15 05:45:19 | 長崎の歴史



その16名の1人であった畠山義成(当時23歳)は、

薩摩藩第一次英国留学生として
英米留学を経験したのち、

開成学校(東京大学の前身)、

外国語学校(東京外国語大学の前身)の校長、

書籍館(国立国会図書館の前身)、

博物館(国立科学博物館および

小石川植物園の前身)の館長を務め、
明治初期の教育行政に深く携わった。

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五代 友厚-49

2016-04-11 05:35:23 | 長崎の歴史


慶応3年(1867年)8月28日、大阪税関の前身である川口運上所が、

ここ川口の地に設置された。

当時の運上所は現在の税関事務と外交事務を行っていた。

慶応4年(1867年)5月1日、「五代友厚」(初代大阪税関長、
後の 初代大阪商工会議所会頭)が「外国官判事」に就任し、
運上所の事務を行うようになった。
明治5年(1872年)11月28日(税関記念日)、
全国の「運上所」の名称は「税関」に統一され、

川口運上所は大阪税関となった。
大正9年(1920年)5月11日、大阪税関は港区の築港に移転し、
この地に大阪税関富島出張所が設置され現在に至っている。

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