古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎で活躍した人~シーボルト

2009-12-29 12:45:19 | 長崎の歴史
(8)


シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、

生物学、民俗学、地理学など

多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送した。

シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰った。

この資料の一部はシーボルト自身により

ヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、

シーボルトの研究継続を経済的に助けた。

こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残されている。

また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に

生物や風俗の絵図を多数描かせ、

薬剤師として来日していたハインリヒ・ビュルガーには、

自身が追放された後も同様の調査を続行するよう依頼した。

これらは西洋における日本学の発展に大きく寄与した。

2005年にはライデンでシーボルトが住んでいた家が

資料館として公開され、

シーボルトの事跡や日蘭関係史を公開している。



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長崎で活躍した人~シーボルト

2009-12-28 09:55:05 | 長崎の歴史
(7)

48歳にあたる1845年には、

ドイツ貴族出身の女性ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚。

3男2女をもうける。

1854年に日本は開国し、

1858年には日蘭通商条約が結ばれ、

シーボルトに対する追放令も解除される。

1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、

1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。

1862年に官職を辞して帰国。

1866年10月18日、ミュンヘンで死去、70歳。

「日本研究家」を自負するシーボルトは、

死の直前まで日本研究に没頭し、

彼の墓は日本の石塔をもとにつくられた。



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長崎で活躍した人~シーボルト

2009-12-26 10:25:29 | 長崎の歴史

(6)


オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、

集大成として全7巻の『日本』を随時刊行する。

(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)

同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記したのは有名。

日本学の祖として名声が高まり、

故国ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、

固辞してライデンに留る。


1840年に中国でアヘン戦争が起こった。

そのころ、日本近海には外国船がさかんに来航していた。

シーボルトは、日本がこのまま鎖国を続けると、

世界情勢からみて日本が外交上不利益を受けると考え

日本の開国を促すための運動した。

1844年にはオランダ国王ヴィレム2世の親書を起草し、

特使コープスにより長崎奉行所を通じて幕府に進言。

幕府は、あくまで鎖国を続けると回答

1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日する

マシュー・ペリーに日本資料を提供し、

早急な対処(軍事)を行わない様に要請。

1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、

書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。



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長崎で活躍した人~シーボルト

2009-12-24 16:30:07 | 長崎の歴史
(5)


日本へ来たのは、

プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説も。


その間に日本女性の楠本滝との間に、

娘楠本イネをもうける。

アジサイを新種記載した際にHydrangea otakusaと命名

(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)

これは滝の名前をつけていると推測される。

1828年に帰国する際、

収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、

国外追放処分となる(シーボルト事件)。

当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。


シーボルトは、日本に残す妻滝と娘いねの身を心配して、

彼女たちに財産を残し、

2人の世話を門弟の二宮敬作や高良斎らに頼んだ。

文政12年(1829)シーボルトを乗せたオランダ船は出島を離れていった。

やり残した日本の調査・研究を

助手ビュルガーや門弟たちに頼んでいった。

オランダに帰り着いたシーボルトは、

滝といねの安否を気遣って手紙を送り、

滝も手紙や母子の姿を描いた螺鈿合子の嗅ぎ煙草入れを送った。


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長崎で活躍した人~シーボルト

2009-12-22 14:45:36 | 長崎の歴史
(4)


9月にロッテルダムから出航し、

喜望峰を経由して1823年4月にはジャワ島へ至り、

6月に来日、

鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。

「江戸幕府」の長崎奉行には

オランダ語に怪しいところがあったのを

「山地オランダ人」と偽る

(本来はドイツ人である為。オランダに山地はない)



出島内において開業。

1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、

西洋医学(蘭学)教育を行う。

日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。

代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・

小関三英・伊藤圭介らがいる。

塾生は、後に医者や学者として活躍している。

そしてシーボルトは、日本と文化を探索・研究した。

また特別に長崎の町で診察することを唯一許され感謝された。



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長崎で活躍した人~シーボルト

2009-12-21 09:15:10 | 長崎の歴史
シーボルト


(3)


デリンガー教授宅に寄宿し、

植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇を得た

これは彼を植物に目覚めさせた。

ヴュルツベルク大学は思弁的医学から、

臨床での正確な観察、

記述及び比較する経験主義の医学への移行を重視していた。

シーボルトの家系の人たちはこの経験主義の医学の

『シーボルト学会』を組織。

各恩師も皆医学で学位をとり、植物学に強い関心をもっていた。

エーゼンベック教授、デリンガー教授がそうであり、

エーゼンベックはコケ植物、菌類、ノギク属植物等について

エーゼンベックは『植物学便覧』という著作を残している。

1820年に卒業し、国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業する。

東洋研究を志し、

1822年にオランダのハーグへ赴き、

国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、

7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。


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長崎で活躍した人~シーボルト

2009-12-18 16:55:14 | 長崎の歴史
シーボルト


(2)


シーボルトが9歳になったとき、

ヴュルツブルクからハイディングフェルトに移住

13歳でヴュルツブルクの高校に入学する。

1815年にヴュルツブルク大学に入学した。

家系や親類の意見に従い、医学を学ぶ

大学在学中は解剖学の教授のデリンガー家に寄寓。

医学をはじめ、動物、植物、地理などを学ぶ。

一方で、大学在学中のシーボルトは、

自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かった。

またメナニア団という一種の同郷会に属し議長に選ばれ、

乗馬の奨励をしたり、

当時決闘は常識だったとはいえ、

33回の決闘をやって顔に傷も作った。

江戸参府のときに商館長ステューレルが

学術調査に非協力的だとの理由で彼に決闘を申し入れている。



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長崎で活躍した人~シーボルト

2009-12-15 16:41:32 | 長崎の歴史

「シーボルト」



(1)

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」

1796年~1866年

ドイツの医師・博物学者

名前は標準ドイツ語読みではジーボルトである。

本人は南ドイツの出身であったため、

自らの名を「シーボルト」と発音していた。


ドイツの司教領ヴュルツブルクに生まれる

シーボルト家はドイツ医学界の名門だった。

父はヨハン・ゲオルク・クリストーフ・フォン・シーボルト、

母はマリア・アポロニア・ヨゼファ

シーボルトという姓の前にフォンが添えられているが、

これは貴族階級を意味し、

祖父の代から貴族階級に登録された。

シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、

学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。


父親ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で亡くなったが、

ヴュルツブルク大学の内科学、生理学教授だった。

妻マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に二男一女を儲けるが、

長男と長女は幼年に死去し、

次男のフィリップだけが成人した。

父の死は1歳1ヶ月のときで母方の叔父に育てられる。



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展覧会情報を更新しました

2009-12-12 13:15:12 | HPの更新情報
とうとう今年も残すところわずかです。

やはり年末は気ぜわしいですね。

どうぞ、お体ご用心でお過ごし下さい。


今日は新しい展覧会の案内を載せました。

九州国立博物館は恒例の新年の特別展を元旦から開催いたします。

大宰府天満宮への初詣にあわせ、例年盛況しております。

今回は「京都 妙心寺」展です。

九州にもこの妙心寺派の禅寺は沢山あります。

期間中、座禅会の開催や講演会、説法などのイベントが沢山です。

また、2月9日~14日には「京都物産展」まで開催されますよ~~!

面白い取り組みです。

受験生を抱える方々は是非いかれて見てはいかがでしょう!!



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     展覧会の案内のページ 

幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-12-10 14:25:57 | 長崎の歴史
本木昌造関連補足

(6)

活版印刷に使われる活字の話~その4


本木昌造は、

欧文活字をわずかに鋳造するのに成功したのみで

日本語活字はできていなかった。

そこで、フルベッキの紹介にあずかり、

当時上海にいたウィリアム・ギャンブル

(日本ではガンブルと表記されることが多い)を招聘し、

文字の細部まで高い再現性を持つ

電胎母型法などを教授された。

初期の本木らの活字は

美華書館の明朝体活字を

そのまま複製したものに過ぎなかった。

本木らのグループは、

日本語を印行するために仮名文字を整備し、

やがて築地活版製造所をつくり活字市場を覇す。

その後、築地活版の活字を購入し、

そこから自らの活字にしていく動きが出た。

その主たるものが秀英舎(現在の大日本印刷)の活字であり、

これは築地体と並んで

金属活字の二大源流と呼ばれるようになっていく。




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