古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

高杉 晋作-27

2015-10-30 06:55:56 | 長崎の歴史

墓所は山口県下関市。

なお、木戸孝允・大村益次郎らによって、

現在の靖国神社に、東京招魂社時代の

始めから吉田松陰・久坂玄瑞・坂本龍馬・

中岡慎太郎たちと共に表彰・鎮魂され、
祀られている。

      長崎の歴史

高杉 晋作-26

2015-10-28 07:35:47 | 長崎の歴史



その後、晋作自身は、
肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、
慶応3年4月14日(1867年5月17日)、
江戸幕府の終了を確信しながらも
大政奉還を見ずしてこの世を去る(享年29)。
臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、
野村望東尼と山県狂介、
田中顕助が立ち会ったとされるが、
田中の残した日記によれば、
彼はその日京におり、詳細は定かではない。

      長崎の歴史

高杉 晋作-25

2015-10-26 05:55:57 | 長崎の歴史



しかし、幕府軍総督小笠原長行の
臆病な日和見ぶりに
激怒した幕府軍諸藩が随時撤兵し、

7月には将軍徳川家茂の
死去の報を受けた
小笠原がこれ幸いと小倉城に
放火し戦線を離脱したため
幕府敗北は決定的となり、
この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、
翌慶応3年(1867年)11月の
大政奉還への大きな転換点となった。

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高杉 晋作-24

2015-10-24 07:15:00 | 長崎の歴史



小倉方面の戦闘指揮では、
まず軍艦で門司・田ノ浦の
沿岸を砲撃させた。
その援護のもと奇兵隊・
報国隊を上陸させ、
幕軍の砲台、火薬庫を
破壊し幕府軍を敗走させた。
その後さらに攻勢に出るも

小倉城手前で肥後藩の猛反撃に合い、
一時小康状態となる。

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高杉 晋作-21

2015-10-17 08:05:41 | 長崎の歴史



第2次幕長戦争
晋作は再度の長州征討に備えて、
防衛態勢の強化を進める。
慶応2年(1866年)1月21日
(一説には1月22日)
土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・

土方久元を仲介として、
晋作も桂小五郎・井上聞多・
伊藤俊輔たちと
共に進めていた薩長盟約が
京都薩摩藩邸で結ばれる。

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高杉 晋作-19

2015-10-13 05:15:12 | 長崎の歴史



高杉 晋作-19
同月、海外渡航を試みて
長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、
反対される。
4月には、下関開港を推し進めたことにより、
攘夷派・俗論派に命を狙われたため、
愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、
日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。

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高杉 晋作-18

2015-10-11 06:05:17 | 長崎の歴史



再び下関へ帰還。12月15日夜半、

伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、
石川小五郎率いる遊撃隊ら
長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。
後に奇兵隊ら諸隊も加わり、
元治2年(1865年)3月には俗論派の
首魁椋梨藤太らを排斥して
藩の実権を握る。

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