古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(11)

2010-07-28 13:15:12 | 長崎の歴史

エピソード~3


日本最初の鉄道が新橋~横浜間に建設された際、

そのゲージ(軌間)を1067mmに決めたのは大隈である。

「日本の鉄道なら狭軌で十分」という感覚だったことから

「我輩の一世一代の失策」と後日語っていたという。



現在残されている大隈の関連文書は

全て口述筆記によるものであり、

大隈自身の直筆のものは存在しない。

これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、

大隈は字の上手さで学友にかなわなかったため、

書かなければ負ける事は無いと

負けず嫌いで字を書く事を止め、

以降は勉強はひたすら暗記で克服し、

本を出版する時も口述筆記ですませ、

死ぬ時まで文字を書かなくなったためと言われている。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(10)

2010-07-26 21:05:47 | 長崎の歴史
エピソード~2



極めて合理的な考えを持っており、


日本の暦を現在使われているグレゴリオ暦に変えた。


英雄を認めず、


そのためか西郷隆盛を全く認めていない。


一方、西郷も大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされる。


明治4年(1871)の西郷上京の際に書かれた


「西郷吉之助意見書」では


名指しこそ避けたものの


大隈の政策を「武士のやること」ではないと切捨て、


西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が


大隈への弾劾意見書を提出したことにより


大隈の西郷への反感は拭い難き物だったようだ。


しかし、大隈は西郷について

 
「人情には極めて篤かった」とも述べている。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(9)

2010-07-21 15:25:04 | 長崎の歴史
エピソード~1


伊藤博文をライバル視していたことがよく知られている。

明治30年(1897)に大磯に別邸を構えたが、

この別荘から西へわずか60メートルの所に

伊藤が本邸を構えていた。

そのせいか大磯別邸はあまり使用されず、

明治40年(1907)には別邸を新たに国府津に構えた。


大隈と同郷の行政法学者織田萬の

エッセイ集『法と人』(1943年、春秋社教養叢書)によると、

早稲田大学開学式典で伊藤が

 「大隈君とはいろいろ競ってきたが、

  教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」

と述べたことに満悦したという。

また伊藤がハルビンで暗殺されると、

 「なんと華々しい死に方をしたものか」

と悲しみつつも本気でうらやんだという。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(8)

2010-07-12 15:55:06 | 長崎の歴史

大正5年に侯爵。

大正11年(1922)1月10日に早稲田で死去

1月17日に自邸での告別式

日比谷公園で「国民葬」が催された。

式には約30万人の一般市民が参列、

多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。

この3週間後の山縣有朋の「国葬」では、

山縣の不人気を反映して

政府関係者以外は人影もまばらだったという。


墓所は佐賀市の龍泰寺と

東京都文京区の護国寺にある。


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展覧会のお知らせを更新しました

2010-07-09 17:05:25 | HPの更新情報
梅雨の中休みで2、3日雨が上がっている長崎ですが

もう、明日には雨予報。

梅雨明けはまだまだのようです。

蒸し暑い日や強い雨には閉口しています。


今日は、久しぶりにHPを更新しました。

展覧会の案内のページです。

長崎は「海フェスタ」や「帆船祭り」

「ペーロンまつり」など海のお祭りが目白押しです。

梅雨明けが待ち遠しいですね。


   古美術 崎陽 HP

     展覧会のページ

       「長崎の海と船展」




幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(7)

2010-07-05 12:25:02 | 長崎の歴史

第一次護憲運動が興り政界に復帰。

大正3年(1914)2度目の内閣を組織。

7月、第一次世界大戦が起こる。

中国大陸での権益確保を求めて、

8月23日に対独宣戦布告をおこなった。

大正4年(1915)対華21ヶ条要求を提出。

しかし内閣は次第に国民の支持を失い

大正5年(1916)10月内閣は総辞職、

あわせて政界から完全に引退した。

退任時の年齢は満78歳6ヶ月で、

これは現在も日本の歴代総理大臣中最高齢の記録である。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(6)

2010-07-03 16:25:22 | 長崎の歴史
明治31年(1898)板垣退助らと憲政党を結成

薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、

日本初の政党内閣を組閣した。

俗に言う「隈板内閣」である。

しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、

また文相尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、

後任人事をめぐって対立はさらに激化。

後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに

不満を持った旧自由党の星亨は、

一方的に憲政党の解党を宣言、

新たな憲政党を結成した。

結局、組閣からわずか4ヶ月後に内閣は総辞職

旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなる。

明治40年(1907)いったん政界を引退し、

早稲田大学総長への就任、

大日本文明協会会長としての

ヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、

南極探検隊後援会長への就任など、

精力的に文化事業を展開した。


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