古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「江副廉蔵」(1)

2011-05-28 07:35:34 | 長崎の歴史


「江副廉蔵」(えぞえ れんぞう)

嘉永元年(1848)~大正9年(1920)

佐賀藩士 従6位。


嘉永元年(1848)佐賀鬼丸に生る。

幼い頃、父道保が佐賀藩御納戸方として

江戸詰めに在ったとき、

父に伴って江戸に住む。

慶応元年(1865)長崎致遠館で

フルベッキについて英語を学び

その後、佐賀藩立海軍寮で英語を教授。

明治2年(1869)佐賀藩軍艦電流丸

艦長真木長義に従い長崎に航海したとき、

夜間にこっそり英国船に乗り込み、

上海に密航し、英租界で活躍。


      古美術 崎陽

幕末の長崎で活躍した人~「真木長義」(4)

2011-05-25 09:35:32 | 長崎の歴史
 補足(2)



             『真木家住宅』

明治43年に東京都白金に建てられ

昭和12年調布市に移築

平成12年有形文化財に登録


 洋館

 北面東端に
 ハーフティンバー風の車寄を突出させて玄関とし、
 南面中央には
 八角のベイウィンドウを張り出す。
 外装化粧煉瓦の貼り方や
 内部ステンドグラスの意匠に新味が認められる。


 日本館

 洋館とともに白金から現在地に移築され、
 洋館の東方に南面して置かれ、
 洋館とは渡り廊下でつながれる。
 木造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺で、
 東南に書院座敷を配する。
 材料、施工とも上質な造りになり、
 明治後期の和館洋館併存住宅の事例として貴重である


      古美術 崎陽

菅直人内閣総理大臣殿

2011-05-20 21:35:12 | 長崎の歴史


西岡武夫参院議長寄稿全文

(5月19日読売新聞朝刊第6面掲載)

昼夜を分かたぬご心労、推察致します。

ご苦労さまです。

私は、国権の最高機関を代表する一人として、

この一文で敢えて率直なことを申し上げます。

菅首相、貴方は、即刻、首相を辞任すべきです。

 いま、東日本大震災の被災者の方々、

東京電力福島第一原子力発電所事故により避難を

余儀なくされておられる皆さん、

多くの国民の皆さん、野党各党、また、

与党の国会議員の中にも、

私と同じ考えの方は多いと思われます。

また、地方自治体の長、議員の皆さんも、

菅首相に対する不信と不安を持っておられると思います。

それでも、「菅首相、お辞めなさい」という

声がなかなか表面化しないのは、理由があるようです。

国政に限らず重大な間題が生じた時、

そうして事柄が進行中に、最高責任者を代えるのは、

余程のことだ、という考えが一般的だからです。

しかし、3月11日の震災発生以来、菅直人氏は、

首相としての責務を放棄し続けてこられました。

 これこそが、余程のことなのです。

実は、昨年、尖閣諸島沖の中国漁船衝突問題の時も、

首相としての責任を放棄されたのですから、貴方は、

首相の国務に関しての債務に自覚をお持ちでないのでしょう。

こうした私の菅首相への「怒り」に、

反論する格好の言葉が、日本にはあります。

日く、「急流で馬を乗り換えるな」。

この言葉は、私も賛成です。しかし、それは、馬に、

急流を何とか乗り切ろうと、

必死になって激流に立ち向かっている雄々しい

姿があってのことです。

けれど、菅首相には、その必死さも、決意も、

術(すべ)もなく、急流で乗り換える危険よりも、

現状の危険が大きいと判断します。

今、菅首相がお辞めにならなけれぱ、

東日本の被災者の皆さんの課題のみならず、

この時点でも、空中に、地中に放射能

・放射線を出し続け、汚染水は海に流されているという、原発事故がもたらす事後の重大な課題も解決できません。

ここで、3月11日以来、なぜ菅首相がやらなかったのか、

やる気がなかったのか、私が疑間を持ち続けている

ことについて触れてみたい、と思います。

 

その一。首相は、なぜ、3月11日以降、直ちに

「緊急事態法」をまとめ、立法化を図らなかったのか。

 多くの会議を作り、指揮命令系統を敢えて

混乱させてきました。

これは、首相の責任を暖昧にして、

決断を延ぱすための手法です。

震災では、県市町村の長、職員、地元の消防団、

消防署、警察官、東京消防庁、地域の民生委員、

自衛隊の皆さんに並々ならぬご苦労をかけています。

看過できないのは、

首相が、10万人もの自衛隊員に出動を命じるのに、

安全保障会議を開かなかったことです。

安全保障会議は、「国防と共に、重大緊急事態への

対処に関する重要事項を審議する機関」です。

首相は法律を無視しているのです。

その二。原発事故は、国際社会の重大な関心事です。

首相が初動段階で、

米軍の協力の申し出を断ったことが

大きな判断の誤りです。

現時点でも、事故の収束について、首相には、

なんの展望もないのです。

その三。首相が、被災された東日本の皆さんのために、

今の時点で、緊急になすべき事は、

「8月上旬」などと言わず、避難所から仮設住宅、

公営住宅の空き部屋、賃貸住宅、

とあらゆる手段を動員し、

被災された方々に用意することです。

さらに、資金の手当て、医療体制の整備が急務です。

その四。また、
首相の債務は、災害による破損物の処理です。

この分別は予想以上に大変で、

梅雨入りを迎えて緊急の課題です。

さらに、新たな国土計画、都市計画、農林、水産業、

中小零細企業再建の青写真、

新たな教育環境の創造等々、

期限を切って方向性をまず明示すべきでした。

その五。
居住の場所から避難を強いられておられる方々は勿論、

原発事故の収束に向かう状況について、

固唾を呑んで見守っておられる日本全国の皆さんに、

正確で真実の情報を知らせるべきでした。

原発が、
案の定、炉心溶融(メルトダウン)を起こしていたではありませんか。

私は、この事実を、東電も首相も、

知っていたのではないかという疑いを持っています。

その六。首相の政治手法は、すべてを先送りする、

ということです。

この国難に当たっても、

前段で指摘した課題のほとんどは、

期限を明示しませんでした。

批判が高まって、
慌てて新たな工程表を5月17日に発表しましたが、

予算の裏付けはありません。

大震災に対する施策も、原発事故の処理費用も、

新たな電力政策も、
それらに要する財源は明らかではないのです。

もし、それらが、政権担当能力を超えた難題なら、

自ら首相の座を去るべきです。

このままでは、
政権の座に居続けようとするための手法と

受け取られても弁明できないでしょう。

あたかも、それは、
「自分の傷口を他人の血で洗う」仕草ではありませんか。

我が国は、
山積する外交問題、
年金間題を始めとする困難な内政問題等、

多くの難題を現に抱えています。

私は、菅直人首相には、それを処理する能力はない、と考えます。

すべてが後手後手にならないうちに、一刻も早く、

首相の職を辞されることを重ねて強く求めます。

野党が多数の参院で間賛決議案を司決しても、

貴方は居座るかも知れません。

もしお辞めにならないのであれば、

26、27両日の主要8か国(G8)首脳会議前に、

野党が
衆院に内閣不信任決議案を出す以外に道はないのです。

私は、いま、己の長い政治経験と、
菅政権を誕生させた責任を感じ、断腸の思いです。

放射能・放射線のために、
自分の生まれた土地を後にしたことも知らない幼児、

母校を離れて勉強している子どもたちの澄んだ瞳を、

私は真っ直ぐ見つめられるだろうか、

と自間自答しています。

国会議員が党派を超え、この大震災と原発事故が、

少なくとも、
子どもたちの未来に影を落とすことのないよう、

身命を賭して取り組まなければなりません。


徳川 大樹 写

鍋島藩佐賀領深堀藩

2011-05-19 22:55:20 | 長崎の歴史


わが先祖の一人[池田八次郎]

日本練炭株式曾社

本社は明治29年の創立にして資本金壱百万円を有し、

営業の目的は熊本県下天草産無煙炭を以って原料

とし練炭を製造するにあり。而して販路は日本帝国

海軍軍用其他廣く各国艦隊の需用に應ず。

創立当初は天草郡崎津港に於て乾燥壓搾機械を用い

製造したりしも其後事業を擴張し明治32年新たに

長崎港外西彼杵郡土井首村に工場を設置す。

明治四十年十月十九日  印刷

明治四十年十月二十一日 発行



長崎縣紀要


第二回関西九州府縣聯合水産共進会
長 崎 縣 協 賛 會



   東京市日本橋区数奇屋町一番地

 印刷者  田 山 宗 尭
     

                 徳川 大樹 写

        長崎の歴史

幕末の長崎で活躍した人~「真木長義」(2)

2011-05-18 12:35:05 | 長崎の歴史


電流丸」艦長として戊辰戦争に従軍。

維新後は兵部省、海軍省に勤務。

明治3年(1870)「日進丸」艦長となり、

翌年に海軍少佐任官。

小艦隊指揮官、海軍省軍務局分課を経て、

明治5年(1872)海軍少将に進級。

提督府出勤、文書課長、海軍裁判所長、

海軍少輔、兼総務局長などを歴任し、

明治18年(1885)海軍中将となる。

明治14年(1881)には榎本武揚海相のもと

海軍制度改革案を提出している。


海軍機関学校長、将官会議幹事、

呉鎮守府建築委員長を経て、

明治32年(1899)後備役に編入された。

その他、宮中顧問官、伏見宮別当、

貴族院議員を務めた。

明治20年(1887)男爵の爵位を受け華族となる。


      古美術 崎陽

わが先祖の一人[池田八次郎]

2011-05-16 22:05:49 | 長崎の歴史

        (日本練炭工業株式会社)


[私の覚書]

深堀~末石町~毛井首町(川南豊作)

護岸工事をして埋め立て深堀に大洋造船

を作らせる八次朗が関ったと思う?

豊作か八次朗が中部と坂田正文(元魚市社長)

を連れてくる。お後はぼちぼちかきます。

池田八次郎の練炭工場(日本練炭工業株式会社)

毛井首町(元土井首中学校)

から平瀬町(川南造船の寮がありました)
-江川町のジョイフルサンの所まで
           線路が引いてあった、

練炭を当時の佐世保海軍に納入


     古美術 崎陽 三無事件
深堀義士伝

幕末の長崎で活躍した人~「真木長義」(2)

2011-05-15 10:55:11 | 長崎の歴史



「電流丸」艦長として戊辰戦争に従軍。

維新後は兵部省、海軍省に勤務。

明治3年(1870)「日進丸」艦長となり、

翌年に海軍少佐任官。

小艦隊指揮官、海軍省軍務局分課を経て、

明治5年(1872)海軍少将に進級。

提督府出勤、文書課長、海軍裁判所長、

海軍少輔、兼総務局長などを歴任し、

明治18年(1885)海軍中将となる。

明治14年(1881)には榎本武揚海相のもと

海軍制度改革案を提出している。


海軍機関学校長、将官会議幹事、

呉鎮守府建築委員長を経て、

明治32年(1899)後備役に編入された。

その他、宮中顧問官、伏見宮別当、

貴族院議員を務めた。

明治20年(1887)男爵の爵位を受け華族となる。


      古美術 崎陽

幕末の長崎で活躍した人~「真木長義」(1)

2011-05-11 08:05:10 | 長崎の歴史


「真木 長義」(まき ながよし)

天保7年(1836)~大正6年(1917)

明治期の日本海軍の軍人 海軍中将

男爵。幼名、鉄太郎、安左衛門。



佐賀藩士で藩医200石の真木長澄の長男として生れる。

安政2年(1855)から約3年半

幕府や諸藩の伝習生と共に

長崎海軍伝習所で教練を受ける。

オランダ人教師団の下で

艦船の運用術などを修得。

藩主から優等賞を授けられた。



      古美術 崎陽