古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~高野長英

2010-01-30 16:36:29 | 長崎の歴史
(13)

シーボルトの弟子


「高野長英」~5


弘化元年(1844)牢屋敷の火災に乗じて脱獄。

この火災は、長英が牢で働いていた栄蔵を

そそのかして放火させたとの説が有力である。

その後の経路は詳しくは不明ながらも

(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)

薬品で顔を変えて逃亡生活を送り、

一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも

春山が急死。

その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で

伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、

宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、

宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。

主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。

このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は

当時としては最高の技術を結集したものとされる。

しかし、この生活も長く続かず、

しばらくして江戸に戻り、沢三伯の偽名を使って町医者を開業。

医者になれば人と対面する機会が多くなるため、

その中の誰かに見破られる事も十分に考えられた。

そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。


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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~高野長英

2010-01-29 11:40:25 | 長崎の歴史
(12)

シーボルトの弟子


「高野長英」~4


天保8年(1837)異国船打払令に基づいて

アメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。

この際長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、

崋山らとともに幕府の対応を批判している。

長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、

内輪で回覧に供した

(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)

天保10年(1839)蛮社の獄が勃発。

長英も幕政批判のかどで捕らえられ、

永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。

牢内では服役者の医療に努め、

また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。

これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。


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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~高野長英

2010-01-28 11:16:32 | 長崎の歴史

(11)

シーボルトの弟子


「高野長英」~3


長英の優秀な語学力を示す有名なエピソードとして、

鳴滝塾出身者の宴会で、

オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりが設けられた。

多くの者は酒が入るうちついつい日本語をしゃべって罰金を取られていたが、

長英のみオランダ語を使い続けていた。

それを妬んだ仲間の伊東玄朴が、

長英を階段から突き落とし

長英は「GEVAARLIKI!」(オランダ語で「危ない!」)と叫んだ。

というのがある。

長英自身才能を鼻にかけて増長する傾向があり、

仲間内の評判も悪かったが、

当時最高の実力の蘭学者として周囲は認めざるを得なかった。



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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~高野長英

2010-01-27 13:56:11 | 長崎の歴史
(10)

シーボルトの弟子


「高野長英」~2


文政11年(1828)シーボルト事件が起き、

二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて

厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れている。

まもなく豊後国日田の広瀬淡窓に弟子入りしたという

この間、義父玄斎が亡くなっており、

長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、

拒絶。家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。


天保元年(1830)江戸に戻り、

町医者と蘭学塾を開業した。

まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、

その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として

小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。

天保3年(1832)紀州藩儒官遠藤勝助らによって

天保の大飢饉の対策会として作られた尚歯会に入り、

崋山らとともに中心的役割を担った。

長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である。


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長崎で活躍した人~シーボルト関連補足~高野長英

2010-01-25 18:05:08 | 長崎の歴史
(9)

シーボルトの弟子


「高野長英」~1


高野 長英(たかの ちょうえい)

文化元年(1804年)~嘉永3年(1850)

江戸時代後期の医者・蘭学者

通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。

号は瑞皐(ずいこう)。

父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。

江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、

弾圧を受け、それを見ることなく亡くなった。

しかし、開国が実現した後、

明治31年(1898)その功績により正四位を追贈された。


陸奥(後の陸前)仙台藩水沢留守家の藩医出身。

養父玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから

家には蘭書が多く、

長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つようになった。

文政3年(1820)江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事。

この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、

師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。

その後長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、

その抜きん出た学力から塾頭となっている。



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長崎で活躍した人~シーボルト~補足

2010-01-23 14:35:13 | 長崎の歴史

(8)


「鳴滝塾」


鳴滝塾(なるたきじゅく)は、文政7年(1824年)に、

シーボルトが長崎郊外に設けた私塾。診療所も兼ねていた。

木造二階建てで、書庫などがあり、

庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培された。

シーボルトは出島から塾まで通い、

西洋医学や自然科学など科学の幅広い分野を教授した。

鳴滝塾で学んだのは、

高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海など50人以上に及ぶ。

私塾の跡地は現在の長崎市鳴滝にあり、

国の史跡「シーボルト宅跡」となっている。

跡地に隣接して1989年(平成元年)に

長崎市によりシーボルト記念館が開館された。


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長崎で活躍した人~シーボルト~補足

2010-01-21 10:46:26 | 長崎の歴史
補足


(7)


シーボルトに影響を及ぼした人々


シーボルト誕生の1796年頃、

神聖ローマ帝国の一部としてヴュルツブルク大公国としていたが、

10年後の1806年には神聖ローマ帝国は滅亡し、

ウィーン会議後の1815年からバイエルン王国に属するようになった。

デリンガーという人物は

後にミュンヘン大学の教授や上級宮中顧問官になるなど、

生理学者、比較解剖学者として

ヨーロッパの学会に広く名を知られた人物だった。

彼は医学だけでなく、自然科学全般に深い関心をもち、

自宅に当時名高い多くの学者が集まり、

様々な問題について議論をしていたといわれる。

シーボルトを教えた教授の中で特に賞賛されているのが、

デゥトルポン産科学教授、

テクストル理論外科学教授、

そしてシェーンライン教授である。

特にシェーンラインは特殊治療および臨床学教授であり

シーボルトは多大な影響を受けている。

自然史研究の方法論に似た、

観察、記述、比較を重んじ、

ドイツで初めて聴診、打診、

血液や顕微鏡による観察と科学的分析を導入した

シーボルトが江戸で多くの蘭学者らと面会したときに

「あなたの仕事は何ですか」と問われて、

「コンデンスポンデーヴォルデ(内情探索官)」と答えたと

渡辺崋山が書いている。


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長崎で活躍した人~シーボルト~補足

2010-01-20 15:10:24 | 長崎の歴史
(6)


「シーボルト事件」~3


シーボルトは高野長英から、

医師以外の肩書は何か、と問われて、

「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えたと

渡辺崋山が書いているが、

これは「コレスポンデントヴェルデ」であり、

内情探索官と訳すべきものである。

なお、シーボルトは安政5年(1858)の

日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、

翌安政6年(1859年)に再来日し幕府の外交顧問となっている。


2度目の来日中の文久2年(1862)にも、

秘書役であった三瀬諸淵が、

シーボルトのために日本の歴史書を翻訳した罪で捕らえられる

という事件が起きている。

一方、シーボルトの孫娘にあたる三瀬諸淵の妻の手記によると

原因は他のところにあったとされている。



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長崎で活躍した人~シーボルト~補足

2010-01-19 17:35:09 | 長崎の歴史
補足

(5)


「シーボルト事件」~2


長崎市鳴滝にあるシーボルト記念館の

研究報告書である『鳴滝紀要』第六号(1996年)発表の

梶輝行の論文「蘭船コルネリウス・ハウトマン号とシーボルト事件」で、

これまで通説だった暴風雨で座礁した船中から

地図等のご禁制の品々が発見されたという説が

後日の創作であることが判明した。

コルネリウス・ハウトマン号は1828年10月に出航を予定していたが、

同年9月17日夜半から18日未明に西南地方を襲った台風で座礁し、

その同年の12月まで離礁できなかったのである。

従来の説は壊滅的な被害を受けて座礁した船の中から、

禁制品の地図類や三つ葉葵の紋付帷子などが

見つかっていたことになっていたが、

座礁した船の臨検もなくそのままにされ、

船に積み込まれていたのは船体の安定を保つための

バラスト用の銅500ピコルだけだった。

江戸で高橋景保が逮捕され、

これを受けてシーボルトへ高橋より送った

「日本地図其の他、シーボルト所持致し居り候」ため、

シーボルト所持する日本地図を押収する内命が

長崎奉行所にもたらされ、

出島のシーボルトは訊問と家宅捜索をうけた。

軟禁状態のシーボルトは

研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、

今までの収集品が無事オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配であり、

コレクションが個人のコレクションとしていた標本や絵画も所有しており、

これが彼一人の自由には出来なくなっていた。

シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、

捕まった多くの日本人の友人を助けようと

彼らに罪を負わせることを拒絶した。

自ら日本の民になり、

残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た。

高橋は1829年3月獄死した。

シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。

しかし、日本の地図を持ち出すことは禁制だと

彼自身知っていたはずであり、

日本近海の海底の深度測定など、

スパイの疑惑が晴れたわけではない。



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長崎で活躍した人~シーボルト~補足

2010-01-18 11:05:57 | 長崎の歴史
補足

(4)


「シーボルト事件」~1


文政11年(1828)9月、

オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、

所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた

日本地図などが見つかり、

それを贈った幕府天文方・書物奉行の

高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した。

シーボルトは文政12年(1829)に国外追放のうえ

再渡航禁止の処分。

当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと言われた。

樺太東岸の資料を求めていた景保に

シーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、

その代わりに、景保が

伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。

この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。

シーボルトは、江戸で

幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられた。

地図は禁制品扱いであったが、

高橋は学者らしい単純さで

シーボルトのために写しを同意した。

後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。

シーボルトらが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、

この旅行で1000点以上の日本名や漢字名植物標本を種集できたが、

彼は日本の北方の植物にも興味をもち、

間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手にいれたく、

シーボルトは間宮宛に丁重な手紙と布地を送ったが

間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、

開封せずに上司に提出した。

高橋景保と間宮林蔵のあいだには確執があったといわれる

間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となり、

多くの日本人と高橋景保は捕らえられ取調べを受けることになり、

シーボルト自身も処分の決定を待つことになってしまった。



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