(13)
シーボルトの弟子
「高野長英」~5
弘化元年(1844)牢屋敷の火災に乗じて脱獄。
この火災は、長英が牢で働いていた栄蔵を
そそのかして放火させたとの説が有力である。
その後の経路は詳しくは不明ながらも
(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)
薬品で顔を変えて逃亡生活を送り、
一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも
春山が急死。
その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で
伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、
宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、
宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。
主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。
このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は
当時としては最高の技術を結集したものとされる。
しかし、この生活も長く続かず、
しばらくして江戸に戻り、沢三伯の偽名を使って町医者を開業。
医者になれば人と対面する機会が多くなるため、
その中の誰かに見破られる事も十分に考えられた。
そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。
古美術崎陽HP
シーボルトの弟子
「高野長英」~5
弘化元年(1844)牢屋敷の火災に乗じて脱獄。
この火災は、長英が牢で働いていた栄蔵を
そそのかして放火させたとの説が有力である。
その後の経路は詳しくは不明ながらも
(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)
薬品で顔を変えて逃亡生活を送り、
一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも
春山が急死。
その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で
伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、
宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、
宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。
主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。
このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は
当時としては最高の技術を結集したものとされる。
しかし、この生活も長く続かず、
しばらくして江戸に戻り、沢三伯の偽名を使って町医者を開業。
医者になれば人と対面する機会が多くなるため、
その中の誰かに見破られる事も十分に考えられた。
そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。
古美術崎陽HP