「五代友厚」
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その後藩命によりイギリスとの貿易に従事する。
また、ベルギーとの交渉でも活躍。
特に薩摩・ベルギー商会の設立は
薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、
諸要因により失敗に終わる。
しかしこの経験が
のちの経営手腕に大きな影響を与える。
欧州視察後、明治元年(1868年)に
明治新政府の参与職外国事務掛となり、
外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、
堺事件などの外交処理にあたった。
また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致した。
初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開けた。
明治2年(1869年)の退官後、
金銀分析所などを設立し、
鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ
実業家として活躍する。
薩長藩閥政府との結びつきが強く、
明治8年(1875)に
大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが
料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、
黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件
にも関わり、政商といわれた。
大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、
大阪商法会議所(現・大阪商工会議所、初代会頭は五代友厚)、
大阪商業講習所(現・大阪市立大学、天王寺商業高等学校)、
大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、
神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)
などの設立に関わった。
鹿児島市泉町(泉公園内)、
大阪市中央区の大阪証券取引所前、
大阪商工会議所前に銅像が建立されている。
古美術崎陽HP