古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~五代友厚

2010-03-30 16:55:38 | 長崎の歴史

「五代友厚」


(3)


その後藩命によりイギリスとの貿易に従事する。

また、ベルギーとの交渉でも活躍。

特に薩摩・ベルギー商会の設立は

薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、

諸要因により失敗に終わる。

しかしこの経験が

のちの経営手腕に大きな影響を与える。

欧州視察後、明治元年(1868年)に

明治新政府の参与職外国事務掛となり、

外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、

堺事件などの外交処理にあたった。

また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致した。

初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開けた。


明治2年(1869年)の退官後、

金銀分析所などを設立し、

鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ

実業家として活躍する。

薩長藩閥政府との結びつきが強く、

明治8年(1875)に

大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが

料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、

黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件

にも関わり、政商といわれた。

大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、

大阪商法会議所(現・大阪商工会議所、初代会頭は五代友厚)、

大阪商業講習所(現・大阪市立大学、天王寺商業高等学校)、

大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、

神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)

などの設立に関わった。

鹿児島市泉町(泉公園内)、

大阪市中央区の大阪証券取引所前、

大阪商工会議所前に銅像が建立されている。



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幕末の長崎で活躍した人~五代友厚

2010-03-29 14:05:09 | 長崎の歴史

「五代友厚」


(2)


天保6年(1836)薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷に

『三国名勝図会』の執筆者で記録奉行の

五代直左衛門秀尭の次男として生まれる。

(後に分家する)

安政4年(1857)に薩摩藩藩士として長崎海軍伝習所に学ぶ。

ここでの経験はその後の功績の元にもなります。

文久2年(1862)に海外視察のため上海に渡る。

このとき30万ドルで売りに出されていた汽船を

12万5千ドルまで値切って購入します。

文久3年(1863)に発生した薩英戦争では、

この上海で購入した天祐丸に乗船して

英国艦隊に拿捕され

寺島宗則とともにイギリス海軍の捕虜となった。

このため無実の疑いをかけられ脱藩。

長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の

取り成しによって一年後に疑いが晴れ

薩摩に帰藩し船奉行副役に任命されます。

この薩英戦争で西洋との格差を痛感し、

技術習得のための欧州留学生派遣を提案して認められます。

慶応元年(1865)五代自身も欧州を視察し、

そこでの経済活動で数々の功績を上げたのです。



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幕末の長崎で活躍した人~五代友厚

2010-03-27 17:55:04 | 長崎の歴史
「五代友厚」


(1)

天保6年(1836)~明治18年(1885)

江戸末期の武士・薩摩藩士、

明治期の実業家。

薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷生まれ。

幼名は徳助。通称才助。

関西経済界の重鎮。

大阪経済を立て直すために、

商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。

東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。

西郷隆盛や大久保利通など

薩摩藩の二大巨頭がいるため

影が薄い感がいなめませんが

薩摩藩出身の経済人として名を馳せました。



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幕末期の長崎で活躍した人 後藤 象二郎

2010-03-24 14:45:11 | 長崎の歴史
 
「後藤 象二郎」

(5)

エピソード

日本人ではじめてルイ・ヴィトンの製品を

愛用した事でも知られている。

彼は明治16年の1月に

パリの本店で鞄を購入した

という記録が残っているそうです。

板垣退助とは幼馴染であり、

吉田東洋の塾で共に学んでいる。

龍馬が提案したと言われている船中八策に基づき、

容堂に大政奉還を進言する。

この進言後、

脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのは

後藤の働きによるとされる。

神奈川県大磯町に別荘を所有。

平塚市袖ヶ浜にも別荘(二扇庵)を所有した。



嫡男猛太郎は、

日本活動フィルム会社(後の日活)初代社長。

猛太郎と新潟の芸妓の嗣子が保弥太。

その長男省三は襲爵手続きをしなかったため、

後藤家は爵位を喪失した。

三菱財閥の岩崎弥之助と

医師・長與稱吉は象二郎の娘婿であり、

三菱の岩崎小弥太と

旭硝子の創業者・岩崎俊弥、

鉄道ファンのパイオニア・岩崎輝弥は

象二郎の孫にあたる。

音楽プロデューサー・川添象郎と

ドイツ語学者・岩崎英二郎、

評論家・犬養道子

及びジャーナリストで共同通信社の社長・犬養康彦は

象二郎の曾孫。



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幕末期の長崎で活躍した人 後藤 象二郎

2010-03-23 16:06:24 | 長崎の歴史
 
「後藤 象二郎」

(4)

後藤が著名である理由として、

幕末期に土佐藩や国政に関わった功績が挙げられる。

公武合体から非佐幕へと政治姿勢を転換させた背景として、

時流が薩長同盟によって

倒幕へ傾斜したことに対する土佐藩の焦りが挙げられる。

後藤は坂本の大政奉還策を容堂に進言し、

同策を藩論として大政奉還の実現に寄与した。

しかし、龍馬の発案である旨を述べずに

功績を横取りしたという汚名もうけた。

だが、龍馬と容堂や慶喜とのパイプ役を担って、

明治維新への原動力となった事は十分な評価に値する。


維新後は政府の要職を歴任したほか、

自由民権運動や実業界への転身など

活動に一貫性がなく、龍馬の影に隠れ

知名度も低く評価も高くはない。

自由民権運動での政府の買収に応じるなど、

同じ活動家達を幾度も失望させている。

このことも後藤の評価を下げている一因であろう。

また、武市を処刑に追い込んだ張本人であるため、

一部の非難もいなめない。




古美術 崎陽

幕末期の長崎で活躍した人 後藤 象二郎

2010-03-20 15:05:15 | 長崎の歴史
 
「後藤 象二郎」

(3)


新政府では参与、左院議長、参議などの要職に就いた。

明治6年(1873)の征韓論争に敗れ、

板垣退助・西郷隆盛 らと共に下野。

板垣・江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成

民選議院設立を建白する。

明治7年(1874)長崎県の高島炭鉱を

政府から約55万円で買い受けて蓬莱社を設立。

しかし2年後に放漫経営で破綻、

三菱の岩崎弥太郎に売却している。

明治14年(1881)板垣を中心に自由党を結成。

明治16年(1883)福沢諭吉の要請で、

自由党の荘士で民兵を組織し、

朝鮮半島に送り込む計画を立てたが頓挫。

明治20年(1887)伯爵を授けられる。

黒田内閣や第1次松方内閣で逓信大臣、

第2次伊藤内閣で農商務大臣などを歴任。

進歩党結成にも尽力している。

明治30年(1897)60歳で没。


古美術 崎陽

茶道具のページを更新しました

2010-03-19 13:05:05 | HPの更新情報
今日の長崎は春らしい柔らかな青空です。

まぁ、春霞の空…って事なんですが

桜がちらほらと咲き出して気持ちが浮き足だっております。

このところ細々したものばかりですが

お稽古用のお茶道具が数点入りましたので

そのうちの2点をHPにアップしました。


    古美術崎陽 HP 


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      茶道具のページ

        炭篭のページ

        ドラのページ


幕末期の長崎で活躍した人 後藤 象二郎

2010-03-17 15:05:08 | 長崎の歴史

(2)
新政府では参与、左院議長、参議などの要職に就いた。

明治6年(1873年)の征韓論争に敗れ、板垣退助・西郷隆盛 らと共に下野する。

板垣・江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民選議院設立を建白する。

明治7年(1874年)、長崎県の高島炭鉱を政府から約55万円で買い受けて蓬莱社を設立する。

2年後に放漫経営で、三菱の岩崎弥太郎に売却している。

明治14年(1881年)、板垣を中心として自由党を結成する。

のち政府に協力して、黒田内閣や第1次松方内閣で逓信大臣、

第2次伊藤内閣で農商務大臣などを歴任。進歩党結成にも尽力している。

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幕末期の長崎で活躍した人 後藤 象二郎

2010-03-16 15:55:05 | 長崎の歴史
 
「後藤 象二郎」

(1)


天保9年(1838)~明治30年(1897)

土佐藩士、政治家。伯爵。

農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事など。

諱は正本(まさもと)、のち元曄(もとはる)。

象二郎は通称、他に保弥太、良輔。

雅号は暢谷。不倒翁など。



土佐藩の馬廻格・後藤助右衛門正晴の長男として

高知城下片町に生まれる。

少年期に叔父吉田東洋の少林塾にて学ぶ。

安政5年(1858)吉田の推挙により幡多郡奉行、

文久元年(1861)には御近習目付、

その後は普請奉行として活躍する。

だが翌年に吉田が暗殺されるや失脚。

文久3年(1863)に藩政に復帰し、

前藩主山内容堂の信頼を得るとともに、

江戸の開成所にて蘭学や航海術、英学も学ぶ。

元治元年(1864)大監察に就任。

後藤は公武合体派の急先鋒として、

武市瑞山らを切腹させるなど土佐勤王党を弾圧。


    
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