古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「木下逸雲」~1

2012-05-29 12:36:09 | 長崎の歴史
『木下逸雲』(きのした いつうん)

寛政12年(1800)~慶応2年(1866)

江戸後期の長崎の南画家。

鉄翁祖門・三浦梧門と共に長崎三大文人画家とされる。

幼名弥四郎といい、

のちに通称を志賀之介とした。

諱を相宰。字は公宰。

逸雲は号、ほかに如螺山人・物々子。

室号を養竹山房・荷香深処とした。


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幕末の長崎で活躍した人~「前野良沢」(14)

2012-05-22 04:05:39 | ホームページ更新
補足~10

良沢が跡を継いだ中津藩士前野家は

二百石ないし三百石の家柄であった。

福岡藩黒田家四十七万石に対し、

中津藩奥平家は十万石である。

福岡藩で三百石は中級家臣だが、

中津藩では感覚的には上級に属した。

福沢諭吉は奥平藩士千五百名を上下に分かち、

医師を「上等」に数えている。

諭吉によれば上等は藩士の四分の一、

下等は四分の三ということになる。

中津藩主第五代奥平昌高は

薩摩藩主島津重豪の二男、

福岡藩主第十一代黒田長溥は同じく重豪の十三男。

実の兄弟で、ともに父重豪の影響を受け、

蘭癖大名に数えられたほど、

西洋の文化にあこがれた人たちであった。

福岡藩と中津藩はよくよく縁がある。


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幕末の長崎で活躍した人~「前野良沢」(13)

2012-05-20 19:35:10 | ホームページ更新
補足~9

『解体新書』刊行後、

医学が発展したことはもちろんであるが、

オランダ語の理解が進み、

鎖国下の日本において

西洋の文物を理解する下地ができたことは重要である。

また大槻玄沢などの人材が育つ契機ともなった。

翻訳の際に「神経」「軟骨」「動脈」

「処女膜」などの語が作られ、

それは今日でも使われている。

もっとも、最初の翻訳という性質上

仕方ないことであるが、

『解体新書』には誤訳も多かったため、

のちに大槻玄沢が訳し直し、

『重訂解体新書』を文政9年(1826)に刊行した。

なお「十二指腸」の名前は誤訳であったが

訂正されずに現在に至り、

正式な医学用語として定着してしまった」

というのは俗説である。

杉田玄白は晩年に、

『解体新書』翻訳のときの様子を


『蘭学事始』に記している。

現在原本は日本大学医学部、

初版は九州大学医学部などに所蔵されている。



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幕末の長崎で活躍した人~「前野良沢」(12)

2012-05-18 05:15:40 | ホームページ更新

補足~8

『解體新書』~8

本文は4巻に分かれている。

それぞれの内容は以下の通り。


巻の一

総論、形態・名称、からだの要素、

骨格・関節総論、骨格・関節各論


巻の二

頭、口、脳・神経、眼、耳、鼻、舌


巻の三

胸・隔膜、肺、心臓、動脈、静脈、門脈、

腹、腸・胃、腸間膜・乳糜管、膵臓


巻の四

脾臓、肝臓・胆嚢、腎臓・膀胱、

生殖器、妊娠、筋肉

図は別に1冊にまとめられている。



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幕末の長崎で活躍した人~「前野良沢」(11)

2012-05-16 06:35:16 | ホームページ更新
補足~7

『解體新書』~7

『解体新書』は一般に

『ターヘル・アナトミア』の翻訳書

と言われているが、

それ以外にも『トンミュス解体書』

『ブランカール解体書』『カスパル解体書』

『コイテル解体書』『アンブル外科書解体篇』

『ヘスリンキース解体書』『パルヘイン解体書』

『バルシトス解体書』『ミスケル解体書』

などが参考にされており、


表紙は『ワルエルダ解剖書』から採られている。

また和漢の説も引かれている。

各所に「翼按ずるに」と注釈がつけられている


(「翼」は杉田玄白の本名)

そのことからも、

単純な逐語訳ではなく、

杉田玄白らの手によって再構成された書

であると言える。



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幕末の長崎で活躍した人~「前野良沢」(10)

2012-05-14 06:15:31 | ホームページ更新

補足~6

『解體新書』~6

関わった人物~3

平賀源内は、安永3年(1774)正月に

杉田玄白宅を訪問。

『解体新書』の本文の翻訳がほぼ完成し、

解剖図の画家を捜していることを知り、

小田野直武を紹介した。

小田野直武は秋田藩角館の武士、画家。

平賀源内の紹介で

『解体新書』の図版の原画を描くことになった。

『解体新書』の開版まで半年という短期間に、

江戸での最初の仕事として

日本学術史上記録的な仕事を成し遂げた。



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幕末の長崎で活躍した人~「前野良沢」(9)

2012-05-12 05:55:22 | ホームページ更新
補足~5

『解體新書』~5

関わった人物~2

中川淳庵は『解体新書』刊行後も

蘭語の学習を続け、

桂川甫周と共にスウェーデンの博物学者

カール・ツンベリーに教えを受けている。

桂川甫三は杉田玄白と同世代の友人。

法眼の地位にあり、将軍の侍医を務めた。

翻訳作業に直接関わった様子はないが、

その子甫周を参加させた。

また補助資料となる

3冊のオランダ医学書を提供している。

『解体新書』刊行の際、

幕府の禁忌に触れる可能性があったため、

甫三を通じて大奥に献上されている。

桂川甫周は法眼桂川甫三の子であり、

後には自身も法眼となる。

翻訳作業の初期から関わったという。

のちに大槻玄沢とともに蘭学の発展に貢献する。

その他に翻訳作業に関わった者は、

巻頭に名前が出てくる石川玄常、

『蘭学事始』に名前が出てくる烏山松圓、

桐山正哲、嶺春泰などがいる。

吉雄耕牛(吉雄永章)はオランダ語通詞。

『解体新書』序文を書き、

この書が良沢と玄白の力作であると賞揚している。



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幕末の長崎で活躍した人~「前野良沢」(8)

2012-05-10 06:05:22 | ホームページ更新
補足~4

『解體新書』~4

関わった人物~1

前野良沢は翻訳作業の中心であったが、

著者としての名は『解体新書』に無い。

一説には、良沢が長崎留学の途中で

天満宮に学業成就を祈ったとき、

自分の名前を上げるために勉学するのではない

と約束したので名前を出すのを断ったという。

一説には、訳文が完全なものでないことを

知っていたので、学究肌の良沢は

名前を出すことを潔しとしなかったのだという。

杉田玄白は

「私は多病であり年もとっている。

 いつ死ぬかわからない」と言って、

訳文に不完全なところがあることは知りながら

刊行を急いだ。

(『解体約図』の出版も玄白の意図であり、

 これに対して良沢は不快を示していたと言われている)

しかし彼は、当時としては非常な長命の

85歳まで生きた。



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幕末の長崎で活躍した人~「前野良沢」(7)

2012-05-08 06:15:13 | ホームページ更新

補足~3

『解體新書』~3

当初、玄白と淳庵はオランダ語を読めず、

オランダ語の知識のある良沢も、

翻訳を行うには不十分な語彙しかなかった。

オランダ語の通詞は長崎にいるので

質問することも難しく、

当然ながら辞書も無かった。

そこで、暗号解読ともいえる方法により、

翻訳作業を進めた。

この様子については

杉田玄白晩年の著書『蘭学事始』に詳しい。

杉田玄白は、この厳しい翻訳の状況を

『櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう』と表した。

安永2年(1773)翻訳の目処がついたので、

世間の反応を確かめるために

『解体約図』を刊行する。

翌、安永3年『解体新書』刊行。


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幕末の長崎で活躍した人~「前野良沢」(6)

2012-05-06 06:25:16 | ホームページ更新


補足~2

『解體新書』~2

明和8年(1771)3月4日、

蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは、

小塚原の刑場において

罪人の腑分け(解剖)を見学した。

(この場に桂川甫周がいたとする説もある)

玄白と良沢の2人はオランダ渡りの

解剖学書『ターヘル・アナトミア』を

それぞれ所持していた。

実際の解剖と見比べて

『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、

玄白は、これを翻訳しようと良沢に提案する。

かねてから蘭書翻訳の志を

抱いていた良沢はこれに賛同。

淳庵も加えて、翌日の3月5日から

前野良沢邸に集まり、翻訳を開始した。

『解体新書』を将軍に推挙したのは、桂川甫三である。


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