古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「楠本正隆」(6)

2011-10-31 05:51:42 | 長崎の歴史
明治12年(1879)12月12日に知事を退任し、

同年元老院議官となる。

明治22年(1889)東京市会議員となり、

同年東京市会議長となる。

明治22年(1889)12月から明治23年(1890)10月まで

元老院副議長を務め、

明治23年(1890)に衆議院議員に当選し、

明治26年(1893)に衆議院副議長となる。

後に、星亨の議長不信任案が可決され、

同年衆議院議長に就任した。

政党活動を通じて立憲改進党などを組織し、

都新聞社主や社長も務めるなど

民権の伸張や政界刷新に努めた。



      長崎の歴史

幕末の長崎で活躍した人~「楠本正隆」(5)

2011-10-29 05:25:13 | 長崎の歴史
明治8年(1875)6月に、

政府が地方官会議を東京に開催し、

その幹事長となる。

同年8月に内務大丞に転じ、

同年12月19日に東京府権知事を兼任する。

明治10年(1877)1月22日に府政に専念し、

東京府知事となる。

料理店、待合、船宿、魚市場、野菜市場に府税を賦課し、

道路橋梁を改修。

市区を改正(大区小区制を廃止し、府内を15区6郡に)した。



      長崎の歴史

HPを更新しました

2011-10-28 18:04:40 | HPの更新情報
長崎は雨です。。。

今年は涼しくなるのが遅いですね。

他所では雪のニュースも聞きますが・・・(苦笑

おくんちの追加記事と長崎の歴史のページを更新しました。


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幕末の長崎で活躍した人~「楠本正隆」(4)

2011-10-27 07:45:06 | 長崎の歴史
明治8年(1875)の離任までの間、

信濃川の工事の問題を解決

大川津事件を鎮定、

柏崎県を新潟県に併合、

第四国立銀行設立など県の近代化に尽力した。

日本初の都市公園として

国立市民公園の白山公園を開設する。

その後の東京府知事時代にも

いくつかの公園を建設しています。

その他、県議会の開設や地租改正推進などに努め、

大久保からは「天下随一の県令」と賞された。


~川蒸気船~

 明治5年5月から明治8年11月までの新潟在任中

 新潟川汽船会社を設立させたりした。

    参考写真添付



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幕末の長崎で活躍した人~「楠本正隆」(3)

2011-10-25 06:55:13 | 長崎の歴史


明治元年(1868)徴士として新政府に出仕。

長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役を務め。

貿易港長崎を治める役につき、

この仕事で井上聞多と交流を持つ。

明治3年(1870)に外務権大丞、

明治5年(1872)に外務大丞。

大久保利通にその政治能力が認められ、

同年5月24日に新潟県令として就任する。


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幕末の長崎で活躍した人~「楠本正隆」(2)

2011-10-23 07:15:56 | 長崎の歴史

天保9年(1838)肥前大村藩士・

楠本直右衛門正式(60石)の長男として

玖島城下の岩船に生まれる。

殿様の側仕えをする「馬廻り」という役目を務め。

藩校・五教館の監察、頭取を務めた。

中老として尊攘倒幕運動で活躍し、

渡辺昇ら「大村三七士」の一人として知られる。




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幕末の長崎で活躍した人~「楠本正隆」(1)

2011-10-21 05:55:22 | 長崎の歴史

天保9年(1838)~ 明治35年(1902)

肥前大村藩の武士、

明治期の政治家。

男爵。

西州と号す。

尊攘・倒幕運動の高まりの中で藩の中老として活躍。

県会開設、地租改正事業推進等の改革に努め、

名地方官といわれた。

大久保利通の腹心として知られた。




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幕末の長崎で活躍した人~「渡辺 清」(15)

2011-10-19 06:35:11 | 長崎の歴史

補足~石井筆子~10


筆子を誇り高く支えたのは

職員や園児もそうであろうが、

皇室とのつながりが大きかったようだ。

度重なる皇室からの援助や励まし、

また皇族の学園来訪は

窮乏にあえぐ学園を物心両面で支えた。

また筆子も終生皇族への礼を絶やさなかった。

夫亮一を失って6年余り、

半身不随のなか園長として学園運営に尽力したが、

昭和19年激しい戦火のもとで

数人の保母に看取られて亡くなった。

79歳だった。

 著書

  『火影』『過ぎし日の旅行日記』

  『自然界とおとぎばなし』など


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幕末の長崎で活躍した人~「渡辺 清」(14)

2011-10-17 06:55:41 | 長崎の歴史

補足~石井筆子~9


実は、亡夫・小鹿島果との間に3人の娘がいたが、

3人に知的障害があった。

そのため早くから石井亮一の経営する滝乃川学園に、

3人のうち1人を預けていた。

静修女学校時代からしばしば滝乃川学園を訪れ、

学園の中にある教会にも通っていたが、

女学校を津田梅子に移譲してからは

滝乃川学園にすべてを打ち込むことになる。

やがて周囲の強い反対を押し切って

明治36年(1903)石井亮一と再婚した。


筆子は学園内に附設されていた保母養成部で

英語、歴史、習字そして裁縫などを教えた。

しかし、教鞭をとる以上に

学園経費の捻出にその労力のほとんどを費やした。

大正9年の出火で6名の子どもが焼死

自身も片足を痛めて不自由な身となる。

夫・亮一と死別し、

園長就任をしたものの過労で脳溢血で倒れ、

車椅子の身にもなった。

大正9年の出火を機会に、

学園は渋沢栄一を理事長とする財団法人になったものの、

経済的窮乏は変わらなかった。

こうした窮乏のなかでも

大隈重信が別荘にするはずだった国立市谷保の

土地を購入して、巣鴨から移動。

現在の滝野川学園の場所である。


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