古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎奉行補足~34

2013-11-15 06:05:48 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~13




~補足~3


長崎港には、日本側と同じ規模の

イギリスやらロシアやらの軍船がいて、

彼らにつけ入る隙を与えるかもしれぬ。

日本のためを思えば、ここは、幕府奉行として、

さっさと退去するし、西役所も空にして渡す、

ゆえに、その後の治安は、町民代表の代官と、

長崎在住の薩摩や土佐の藩士にゆだねたい、

という申し入れだった。

薩摩と土佐の幹部は最初は疑ったが、

翌朝西役所に赴くと、ほんとに空っぽになっていた。

河津祐邦は、わずかな護衛と共に、

既にイギリス船に乗り込んでいたのである。

すっかり、空っぽになった役所を見つけて、

薩摩と、土佐藩士は、あっけにとられたという。

見事な引き際であった。


ちなみに、九州にはもう一つ天領として

阿蘇に近い内陸の盆地である日田があった。

幕末においては、広瀬淡窓の教えを学ぼうと

若者が集まったことで有名だ。

その日田代官所には、

西国郡代として、窪田鎮勝がいたが、

河津が長崎を脱走した3日後に

やはり脱走して、

日田は周辺の諸藩により接収された。




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長崎奉行補足~33

2013-11-13 06:45:18 | 長崎の歴史


『河津伊豆守祐邦』~12


~補足~2


ところが長崎に来てみれば、

なんと数日前に将軍・慶喜が大政奉還をしたという。

幕府消滅ということであるから、

幕府直轄領である長崎奉行も意味がなくなる。

彼はとても微妙な立場に置かれた。

しかも、半月後には、京都近郊の鳥羽伏見おいて、

薩長軍と、幕府軍とが戦争を始め、

しかも幕府軍が大敗して、

将軍・慶喜は船で江戸に逃げたという。

ほとんど官軍の中に取り残されたことになる。

彼はすぐに長崎代官に相談する。

当時の筆頭は、薬師寺久佐衛門という人物。

「長崎奉行にお願いしたいことは、

 長崎町民に無益な混乱を起こして欲しくない

 奉行には、すみやかに長崎を立ち去ってもらいたい」

長崎役所を護衛するために幕府から派遣されていた

浪士の集まりである遊撃隊300人を長崎から追い出し、

奉行所の役人にも、長崎から去ることを命じた。

その上で、福岡・黒田藩を通じて、

長崎に出張所を設けている

薩摩藩や土佐藩の幹部に面会を求めた。

実は、鳥羽伏見の戦いが起こった時点で、

長崎でも長崎奉行所と、

長崎在住の薩摩、土佐の武士達との間に

戦さが起こるのではないかと

長崎町民は恐れてパニックになり、

避難騒ぎが起きていたのである。

それに輪をかけたのが

浜町で起こった火事である。

長崎中心部から火の手が上がり、

土佐商会の建物までもが焼けてしまったのである。

奉行所の反撃かと思われたらしい。



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長崎奉行補足~32

2013-11-11 05:35:27 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~11


~補足~1

幕末の最後の長崎奉行河津伊豆守祐邦というひとは

「スフィンクスと34人のサムライ」

という、チョンマゲ姿の侍が

エジプトのスフィンクスの前に並ぶという

有名な幕末の集合写真に写っている一人である。

幕府の第二次遣欧使節団がパリに派遣されたが、

その34名が帰りにエジプトに立ち寄り、

ピラミッドとスフィンクスの前で記念写真を撮った物。

河津はその使節団の副使であった。

つまり、洋航帰りであり、

世界の状況も良く理解していた。

帰国後、函館奉行として、

五稜郭の建設にも功のあった人で、

慶応3年、勘定奉行並になり、

126代長崎奉行に着任する。

長崎奉行というのは、

元々、幕府旗本から抜擢されていたが、

外国貿易で相当の蓄財ができるというので、

近隣大名からも手を上げる者が殺到したが、

幕末になると、さすがに幕府の要人が着任することになった。



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長崎奉行補足~31

2013-11-09 06:25:07 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~10


慶応3年(1867)長崎の浦上村の隠れキリシタンが、

自らのキリスト教信仰を表明し、

捕縛されるという事件が発生(浦上四番崩れ)

前任の長崎奉行である能勢頼文や徳永昌新から

この問題を引き継いだ。

信徒達の中で、ただ1人転宗を拒んだ

高木仙右衛門を密かに立山の奉行所に呼び出し、

2人だけで対話した。

河津は仙右衛門に転宗を穏やかに諭したが、

彼はそれには従おうとはしなかった。

自分は仙右衛門を殺すために呼んだのではないと言い、

キリスト教は良い教えであるが、

今は信仰の許しが無い、

御許しが出るまで心の中でのみ信仰するに留め、

表立った信仰はしないように、と伝えた。

しかし仙右衛門は、

心の内でだけ信じる事はかないませぬと返答した。

河津はさらに、キリストの教えの良い事は、

フランスに行った自分はよく知っている。

しかし、今の情勢下では

信仰を許すわけにはいかないので、

今日は家に帰りよくよく考えて返事をするようにと述べ、

仙右衛門に金3分を紙に包んで与えたという。

しかし、この問題を解決する前に

河津は長崎を脱出したため、

浦上の信徒達の処遇は維新政府が決めることになった。



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長崎奉行補足~30

2013-11-07 06:55:05 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~9


後日、長崎で事後処理にあたった各藩士達は、

河津の長崎脱出を

「脱去之挙動、脱走同様の筋」

であると酷評した。

その一方、彼の行動は、

長崎の地での幕府軍と新政府軍との武力衝突を

回避するためのものだったとの評価もある。



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長崎奉行補足~29

2013-11-05 05:45:07 | 長崎の歴史


『河津伊豆守祐邦』~8


河津は、奉行所引越しの騒ぎに町民の眼を向けさせ、

その間に密かに支度をし、

身辺の品を港内に停泊中のイギリス船に運び、

ついで守衛の村尾氏次という者1人を伴って西役所から出て、

イギリス船に乗り込んだ。

その時彼は、洋服に靴を履き、

ピストルをズボンに隠し持っていたという。

慶応4年1月14日夜11時頃のことであった。

そして、翌15日早朝、その船で長崎を脱出した。

河津が長崎を去った後、

当時長崎にいた各藩藩士や長崎の地役人達が協議し、

政府から責任者が派遣されるまで

諸事を行なうための協議体を作り、

長崎会議所と称して、

長崎奉行所西役所をその役所とした。

また、長崎奉行支配組頭の中台信太郎が

長崎奉行並に昇任し、

奉行所の残務整理をした。

同年2月23日に中台はその役を免ぜられ

長崎奉行所はその役目を終えた。



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長崎奉行補足~28

2013-11-03 05:15:31 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~7


翌15日朝、奉行所から

長崎の地役人の主だった者たちに

布告が伝えられた。

それは

「鳥羽・伏見の地で

 容易ならぬ事態が生じたので、

 奉行は長崎在勤の支配向を召連れ、

 江戸表へ戻る事とする。

 その方が当地の者の為にも良いと判断する。

 留守中の事は、

 筑前福岡藩主と肥前島原藩主に依頼しているので、

 この両人が取計らうことになっている」

というものであった。

そして、地元の調役に

5,000石の米と6,000両の金を託して、

これを地役人らへの当面の手当とし、

町方掛に米5,000石を渡し、

これを市中一同への当座の配当とする処置がとられていた。


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長崎奉行補足~27

2013-11-01 06:15:16 | 長崎の歴史
『河津伊豆守祐邦』~6

これを聞いた粟田は、

薩摩藩の聞役・松方助左衛門(松方正義)や

土佐藩士佐々木三四郎(佐々木高行)を招き、

事後について河津と共に打合わせをした。

この際、河津は長崎奉行所西役所にあった金子も

運び出そうとしたが、

談判の上、残していく事となった。

翌14日、河津は、

西役所は海岸に近く不用心であるから、

立山役所にこれをまとめる為に移転するという名目で、

大掛かりな荷物の移動を行なった。

引越し作業は早朝から夜まで続き、

夜には引越しの祝いとして、

立山役所から260人分の料理の注文が出された。

しかし、この注文が突然取消されたため、

立山役所の近所では大騒ぎとなった。

同時に西役所近くの薩摩屋敷でも

人の出入りが頻繁に行なわれていた為、

町民の間で様々な憶測が飛び交った。



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