エピソード
大村純熈は、
藩内で大村七騎と呼ばれる名家出身の渡辺清に、
藩士編成による倒幕部隊を編成させます。
大村藩はわずか2万7000石。
兵力は乏しいのですが
逆に少数であることを活かし、
少数精鋭の火力軍団を結成。
銃撃二個小隊と、大砲隊、
あわせて100名の「新精組」です。
刀剣中心の幕軍に対して、
銃撃や大砲などを持つ新精組は強く
少数ながら、桑名城を落とし、
赤報隊を逮捕し、三月初めには
官軍の先鋒として箱根を無血占領します。
隊長の渡辺清は、
西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城の場に
大村藩を代表して立ち会う事になります。
その後には上野山で彰義隊と戦い、
さらには奥州方面の戦いにも参戦し、
戊辰戦争後は江戸の警備に就いています。
わずか100名程度の少数兵力でありながら、
見事な成果をあげます。
長崎の歴史
大村純熈は、
藩内で大村七騎と呼ばれる名家出身の渡辺清に、
藩士編成による倒幕部隊を編成させます。
大村藩はわずか2万7000石。
兵力は乏しいのですが
逆に少数であることを活かし、
少数精鋭の火力軍団を結成。
銃撃二個小隊と、大砲隊、
あわせて100名の「新精組」です。
刀剣中心の幕軍に対して、
銃撃や大砲などを持つ新精組は強く
少数ながら、桑名城を落とし、
赤報隊を逮捕し、三月初めには
官軍の先鋒として箱根を無血占領します。
隊長の渡辺清は、
西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城の場に
大村藩を代表して立ち会う事になります。
その後には上野山で彰義隊と戦い、
さらには奥州方面の戦いにも参戦し、
戊辰戦争後は江戸の警備に就いています。
わずか100名程度の少数兵力でありながら、
見事な成果をあげます。
長崎の歴史
明治20年(1887)
戊辰戦争の功により男爵を叙爵。
明治23年(1890)貴族院男爵議員に選出され
死去するまで在任した。
明治24年(1891)福島県知事に就任し、
明治25年(1892)に退任した。
その他、高等法院予備裁判官などを務めた。
長女 石井筆子(滝乃川学園長)
養子 渡辺汀(海軍大佐・滝乃川学園長)
弟 渡辺昇
(貴族院議員・子爵・
大日本武徳会創設者の一人)
長崎の歴史
戊辰戦争では、
東征軍監、奥羽追討総督参謀として従軍し、
磐城の戦いなどに参戦。
その功により賞典禄450石を受けた。
明治に入り政府に出仕。
徴士民部官権判事、同権大丞、民部大丞、
厳原県権知事、大蔵大丞などを歴任。
明治7年(1874)福岡県令となり、
明治14年(1881)まで務め、
退任後に元老院議官に就任。
長崎の歴史
清は天保6年(1835)に
玖島城下岩船で生まれ、
五教館で学びました。
父は巌といい、
藩で寺社奉行、宗門奉行を務めた。
三城七騎籠もりで活躍した渡辺伝弥九の子孫。
西郷隆盛と勝海舟とで行われた
江戸城無血開城の会談に
西郷に指名されて同席し、
会見の模様を世に伝えた。
江戸城総攻撃予定日の前日に、
英国公使ハリー・パークスと会見し、
パークスが江戸攻撃には反対である旨を
西郷隆盛に伝えた。
長崎の歴史
渡辺 清(わたなべ きよし)
天保6年(1835)~明治37年(1904)
幕末の武士(大村藩士)
明治の官僚・政治家
元老院議官、貴族院議員等を歴任。
爵位は男爵。
名・武勝、通称・清左衛門、号・東山。
肥前国大村に
大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。
大村藩三十七士の一人
弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として奔走。
長崎の歴史
天保6年(1835)~明治37年(1904)
幕末の武士(大村藩士)
明治の官僚・政治家
元老院議官、貴族院議員等を歴任。
爵位は男爵。
名・武勝、通称・清左衛門、号・東山。
肥前国大村に
大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。
大村藩三十七士の一人
弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として奔走。
長崎の歴史
エピソード
近藤勇は、自分の道場(試衛館)で
負けるとおぼしき人物には、渡辺昇を呼び、
相手をうちまかしてもらい、
ごちそうしたといわれています
そして時がたち、
勇が局長を務める新選組は
池田屋事件で長州の過激派を襲撃し
その名を天下に轟かせます。
倒幕の志士として名高い「肥前の渡辺昇」は、
新選組の標的の一人でもありました。
土方歳三が執念で渡辺昇の隠れ家を見つけだし、
いざ襲撃の直前に編み笠姿の近藤勇が一人、
その隠れ家を訪ね、
「渡辺うじの古い友人ゆえ、
今夜は危ないことを伝えにきた」
といい残し去ります。
その後、土方はこの襲撃失敗が
義理堅い局長の密告の仕業と分かっていながらも、
不問にしたとつたわります。
丁度、渡辺は留守でこの事を知りません。
この事実を知るのはなんと近藤勇の死後です。
葬儀にも出なかった不誠実な自分を嘆いて
人目も憚らずに泣いたと言われます。
長崎の歴史
近藤勇は、自分の道場(試衛館)で
負けるとおぼしき人物には、渡辺昇を呼び、
相手をうちまかしてもらい、
ごちそうしたといわれています
そして時がたち、
勇が局長を務める新選組は
池田屋事件で長州の過激派を襲撃し
その名を天下に轟かせます。
倒幕の志士として名高い「肥前の渡辺昇」は、
新選組の標的の一人でもありました。
土方歳三が執念で渡辺昇の隠れ家を見つけだし、
いざ襲撃の直前に編み笠姿の近藤勇が一人、
その隠れ家を訪ね、
「渡辺うじの古い友人ゆえ、
今夜は危ないことを伝えにきた」
といい残し去ります。
その後、土方はこの襲撃失敗が
義理堅い局長の密告の仕業と分かっていながらも、
不問にしたとつたわります。
丁度、渡辺は留守でこの事を知りません。
この事実を知るのはなんと近藤勇の死後です。
葬儀にも出なかった不誠実な自分を嘆いて
人目も憚らずに泣いたと言われます。
長崎の歴史