古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

展覧会の案内を更新しました。

2011-09-29 16:36:17 | HPの更新情報
今日の長崎は雨になりました。
暑さ寒さも彼岸まで~といいますが
長崎ではくんちが過ぎないと涼しくなりません。。。
でも、赤とんぼが沢山飛んでいます。
金木犀の花がいい香り~~

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     展覧会の案内


幕末の長崎で活躍した人~「渡辺 清」(5)

2011-09-29 06:55:02 | 長崎の歴史
エピソード

大村純熈は、

藩内で大村七騎と呼ばれる名家出身の渡辺清に、

藩士編成による倒幕部隊を編成させます。

大村藩はわずか2万7000石。

兵力は乏しいのですが

逆に少数であることを活かし、

少数精鋭の火力軍団を結成。

銃撃二個小隊と、大砲隊、

あわせて100名の「新精組」です。

刀剣中心の幕軍に対して、

銃撃や大砲などを持つ新精組は強く

少数ながら、桑名城を落とし、

赤報隊を逮捕し、三月初めには

官軍の先鋒として箱根を無血占領します。

隊長の渡辺清は、

西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城の場に

大村藩を代表して立ち会う事になります。

その後には上野山で彰義隊と戦い、

さらには奥州方面の戦いにも参戦し、

戊辰戦争後は江戸の警備に就いています。

わずか100名程度の少数兵力でありながら、

見事な成果をあげます。

      長崎の歴史

幕末の長崎で活躍した人~「渡辺 清」(4)

2011-09-27 07:35:13 | 長崎の歴史


明治20年(1887)
戊辰戦争の功により男爵を叙爵。

明治23年(1890)貴族院男爵議員に選出され

死去するまで在任した。

明治24年(1891)福島県知事に就任し、

明治25年(1892)に退任した。

その他、高等法院予備裁判官などを務めた。


長女 石井筆子(滝乃川学園長)

養子 渡辺汀(海軍大佐・滝乃川学園長)

弟  渡辺昇
  (貴族院議員・子爵・
   大日本武徳会創設者の一人)


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幕末の長崎で活躍した人~「渡辺 清」(3)

2011-09-25 07:35:10 | 長崎の歴史

戊辰戦争では、

東征軍監、奥羽追討総督参謀として従軍し、

磐城の戦いなどに参戦。

その功により賞典禄450石を受けた。

明治に入り政府に出仕。

徴士民部官権判事、同権大丞、民部大丞、

厳原県権知事、大蔵大丞などを歴任。

明治7年(1874)福岡県令となり、

明治14年(1881)まで務め、

退任後に元老院議官に就任。



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幕末の長崎で活躍した人~「渡辺 清」(2)

2011-09-23 06:45:09 | 長崎の歴史


清は天保6年(1835)に

玖島城下岩船で生まれ、

五教館で学びました。

父は巌といい、

藩で寺社奉行、宗門奉行を務めた。

三城七騎籠もりで活躍した渡辺伝弥九の子孫。


西郷隆盛と勝海舟とで行われた

江戸城無血開城の会談に

西郷に指名されて同席し、

会見の模様を世に伝えた。

江戸城総攻撃予定日の前日に、

英国公使ハリー・パークスと会見し、

パークスが江戸攻撃には反対である旨を

西郷隆盛に伝えた。

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幕末の長崎で活躍した人~「渡辺 清」(1)

2011-09-20 07:05:58 | 長崎の歴史
渡辺 清(わたなべ きよし)

天保6年(1835)~明治37年(1904)

幕末の武士(大村藩士)

明治の官僚・政治家

元老院議官、貴族院議員等を歴任。

爵位は男爵。

名・武勝、通称・清左衛門、号・東山。

肥前国大村に

大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。

大村藩三十七士の一人

弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として奔走。



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幕末の長崎で活躍した人~「渡辺 昇」(14)

2011-09-18 06:35:04 | 長崎の歴史
エピソード

近藤勇は、自分の道場(試衛館)で

負けるとおぼしき人物には、渡辺昇を呼び、

相手をうちまかしてもらい、

ごちそうしたといわれています

そして時がたち、

勇が局長を務める新選組は

池田屋事件で長州の過激派を襲撃し

その名を天下に轟かせます。

倒幕の志士として名高い「肥前の渡辺昇」は、

新選組の標的の一人でもありました。

土方歳三が執念で渡辺昇の隠れ家を見つけだし、

いざ襲撃の直前に編み笠姿の近藤勇が一人、

その隠れ家を訪ね、

「渡辺うじの古い友人ゆえ、

 今夜は危ないことを伝えにきた」

といい残し去ります。

その後、土方はこの襲撃失敗が

義理堅い局長の密告の仕業と分かっていながらも、

不問にしたとつたわります。

丁度、渡辺は留守でこの事を知りません。

この事実を知るのはなんと近藤勇の死後です。

葬儀にも出なかった不誠実な自分を嘆いて

人目も憚らずに泣いたと言われます。


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