古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-09-30 10:53:00 | 長崎の歴史
(20)

海援隊メンバー

「関義臣」


関 義臣(せき よしおみ)

1839年天保10年(1839) ~大正7年(1918)

越前福井藩士、政治家。

若い時、藩校の明道館に学び、

当時幹事を務めていた橋本左内に認められ、

文久2年(1862)昌平坂学問所へ入る。

明治元年(1868)には舎長を務めた。

慶応2年(1866)長崎に居た坂本龍馬を訪ね、

亀山社中の一員となり、その後に海援隊にも所属した。

明治3年(1870)の武生騒動に参加し、

捕縛されたが釈放

その後大阪府権判事、鳥取県権令、宮城控訴院検事長、

大審院検事、徳島県知事、山形県知事、貴族院議員を歴任。

明治40年(1907)には男爵を授かる。


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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-09-29 12:59:04 | 長崎の歴史
(19)

海援隊メンバー

「山本復輔」


山本洪堂  生没年月不詳

土佐藩士 山本洪堂・山本復輔

資料不足で詳細は不明

亀山社中が結成されて間もなく参加したものと推測されている

記録上では慶応二年の坂本龍馬から伊藤助太夫宛の書簡にみられる

その後海援隊に参加し、

陸奥陽之助等と共に大阪に駐在して商事活動を行っていた。

龍馬の死に際し、

其の事実を知った山本洪堂は同僚の佐柳高次と共に、

下関に至り、凶報を伊藤助太夫や三吉慎蔵に伝える大役を果たす

一旦長府の三吉慎蔵邸に移っていた傷心のお龍を、

長崎に迎えるのに一役買っている。

慶応四年に勃発した長崎奉行所西役所占拠に参加

他の在崎の海援隊士と共に行動し活躍

元天領だった天草富岡代官所襲撃事件の鎮撫に、

同僚の吉井源馬と向かい、見事に鎮圧に成功している。

維新後は大阪に移り、医者になったとの説もある

明治初期の官員録により

新政府に出仕していたとも推測される
 
その後の消息は不明で、没年、墓所も不詳



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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-09-25 12:14:57 | 長崎の歴史
(18)

海援隊メンバー

「吉井源馬」


吉井源馬 天保二年(1831)~明治十四年(1881)

土佐藩士 正澄、小田小太郎


土佐国土佐郡南新町の土佐藩士吉井駒大(吾)の長男


慶応元年三条実美ら五卿が太宰府に蟄居のころ、

随行していた土佐藩出身の土方久元らを追って脱藩

清岡半四郎に従い五卿が復権して京都への帰還が決定するまで警衛に当たる

坂本龍馬を慕い、三条実美ら五卿の復権、帰京が決定した慶応三年に

長崎へ出て、海援隊に参加した。


その後イロハ丸事件の賠償問題交渉に加わり、

龍馬の死後の慶応四年海援隊による長崎奉行所占拠に参加

その際に沢村惣之丞の最期に立ち会っている。
  
長崎奉行所占拠直後に天領だった天草富岡代官所襲撃事件が発生

その鎮撫に同僚の山本洪堂等と向かい、

一発の銃砲も射つことなく鎮め、見事に其の重責を果たした。

維新後は新政府に出仕し長崎府員となり、

長崎市民の動揺を収め、秩序の回復に尽力した。

佐渡縣判事、刑法官権判事を歴任

明治二年民部省の監督正に任じられ、

同三年同省権大丞となり、大阪府権大参事を兼任した。

同四年工部省工部小丞、同五年工部大丞に昇進し、

明治七年同省会計局長権長兼任となる。

明治九年十二月十三日工部省灯台寮の長官、灯台頭となり

翌十年一月十日、故あって退官した。

明治十四年五月二十七日没。 享年五十一歳。



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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-09-23 15:18:20 | 長崎の歴史
(17)

海援隊メンバー

「近藤長次郎」


近藤 長次郎(こんどう ちょうじろう)

天保9年(1838)~ 慶応2年(1866)

幕末期の土佐藩出身

名を春宗。別名は上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人。


高知城下の饅頭商人の息子として生まれ

はじめは名字がなく饅頭屋長次郎と呼ばれた。

幼少期から聡明で

長次郎はここで家業の饅頭行商を手伝いながら、

学問好きであった叔父門田兼五郎の指導を受けて学問を始めたという

江戸に出て学問と砲術を学び、

その才能を山内容堂にも認められ

文久3年(1863)名字帯刀を許された

神戸海軍操練所に入る

土佐藩出身である坂本龍馬とは仲が良く、

龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立

龍馬の命令で長州藩に赴き、

小銃を売り渡している。

このとき、長州藩主の毛利敬親から謝礼の言葉を直々に頂く

汽船・ユニオン号を購入し

長州藩とユニオン号の引渡し条件をめぐって諍いを起こす

しかし龍馬が仲介し長州藩より謝礼金を受け取る

狭い日本にいるよりも世界に羽ばたく国際人になりたかったようで

ユニオン号引渡しで長州藩から得た謝礼金を

イギリス商人のトーマス・グラバーに渡し

イギリスに留学しようとした。

ところが天候悪化により出港が遅れたため

その計画は露見

密かに亀山社中の資金を横流したなどの罪で

社中の隊士たちより切腹を言い渡される

長次郎の切腹は、龍馬不在中に社中の隊士が決定した

長次郎は享年29。


 龍馬の妻であるお龍の回顧録「千里駒後日譚」に

 長次郎の訃報を聞いた龍馬が

  「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」と

 その死を悼んでいたという

葬儀は社中の者であげた。

墓は皓台寺墓地内の裏手(山側)にひっそりと建てられていたが、

現在では小曾根家の墓地内に移設

墓碑には、小曾根邸の離れの屋敷名をとって

「梅花書屋氏墓」と記されている。

筆跡は龍馬のものとされている。

龍馬は後に、

 「術数有り余って至誠足らず。

  上杉氏(長次郎の変名上杉宋次郎のこと)身を亡ぼす所以なり」

と嘆いたという。



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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-09-21 17:52:14 | 長崎の歴史
(16)

海援隊メンバー

「沢村惣之丞」


沢村 惣之丞 (さわむら そうのじょう)

天保14年~慶応4年(1843~1868)

幕末の土佐の人物。

名を延世。変名 前河内愛之助、関雄之助。

 

天保14年土佐郡潮江村に土佐藩志賀氏家来

地下浪人沢村禎次の子

 
高知城下築屋敷にある日根野道場に入門して剣術を学ぶ。

日根野道場には坂本龍馬も通っていました。

土佐勤王党で幹部として活躍した間崎哲馬に道徳、倫理を学ぶ。


文久元年土佐勤王党が結成されると加盟

文久2年(1862)吉村寅太郎と共に土佐藩を脱藩。

武市半平太への現状報告のため一時帰国するが、

その後坂本龍馬らと再び脱藩

勝海舟の門下生となり、海援隊に属す。


慶応3年(1867)坂本龍馬殺害事件の容疑者であった三浦休太郎の

暗殺計画に参加するが、失敗に終わる。

翌年には維新の混乱から無人状態となった長崎奉行所に、

沢村ら海援隊の人間が中心となって入居し、

長崎の町を警備した。

しかし1月14日の警備中、薩摩藩士・川端平助を誤殺

沢村は薩摩藩との軋轢を恐れ、

海援隊本部で責を負うて切腹により他界

享年二十六歳。

同志野村辰太郎と吉井源馬は最後を見届けます。

小曾根邸で別れの杯も交わしています。



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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-09-19 08:51:02 | 長崎の歴史
(15)

海援隊メンバー

「中島信行」

中島 信行(なかじま のぶゆき)

弘化3年1846)~明治32年(1899)明治時代の政治家、

初代衆議院議長、男爵。号は長城。

幕末には中島作太郎と名乗る。

最初の妻は陸奥宗光の妹・初穂(明治10年(1877)死去)

後妻は女性解放運動家として知られる岸田俊子


土佐国高岡郡塚地村の郷士・中島猪之助の長男。

少年期に、耕余塾へ

元治元年従兄弟の中島与一郎と細木核太郎と共に土佐を脱藩

途中中島与一郎が国境で足を痛め自刃

作太郎らは捕吏から逃れて松山を経由して瀬戸内海を渡り長州へ

長府では七公卿の守衛役として活動

長崎に入り、坂本龍馬に誘われて海援隊に

海援隊士の中では最年少で鼻っぱしが強かったと伝わる

庶務役で活躍、龍馬には可愛がられたようです

龍馬の死後、陸援隊にも参加。


維新後は政府の役人となり元老院議官にまで昇った

自由党を結成に参加し副総理

保安条例で東京を追放され横浜に住んだ

国会が開かれると第1回衆議院議員総選挙で当選して衆議院議員

明治27年(1894年)に貴族院議員に勅撰

明治32年、54歳にて死去。



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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-09-18 15:23:15 | 長崎の歴史
(14)

海援隊メンバー

「野村辰太郎」


野村辰太郎~ 野村維章・要輔・辰太郎


弘化元年(1844)~明治36年(1903)

土佐国土佐郡小高坂村で土佐藩士、白札格の野村亀四郎の長男

野村家は代々砲術を得意とする家柄

万延元年父・亀四郎に従い江戸に出て、

江川太郎左衛門の門に入り新式砲術を学ぶ

文久2年藩の砲術教授役

元治元年藩船南海丸に乗り込み長崎に渡航

長崎の何礼之塾で英語を修業中に坂本龍馬と知遇

慶応2年脱藩して亀山社中に参加

同年六月亀山社中が購入した大極丸に、

何礼之塾で一緒に学んだ白峰駿馬と共に、船長として乗り組む。

龍馬の死後、慶応4年海援隊による長崎奉行所の占拠に参加

薩摩藩士を誤殺し責を負うて切腹した沢村惣之丞の最期に立ち会う。

海援隊解散後、長崎振遠隊の幹部として戊辰戦争に従軍、

奥羽鎮撫総督府の参謀添役を勤め、奥羽方面で戦功を挙げる

維新後は新政府に出仕し、

佐賀縣権参事・参事や茨城縣権令・縣令を勤めたのち

司法官に転じ、宮城・東京・大阪・函舘などの控訴院検事を歴任

控訴院検事長にまで進む。

明治36年死亡、享年六十歳。 

男爵を授けられる。

墓は東京都港区南青山二丁目の青山霊園内



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幕末の長崎~龍馬関連補足~海援隊

2009-09-17 18:13:03 | 長崎の歴史
(13)

「安岡金馬」


安岡 金馬(やすおか かねま)

弘化元年(1844)~明治27年(1894)

土佐郡福井村の庄屋、安岡忠郷の二男

名を忠綱。別名平安佐輔。

田野学館で学問を学び、

文久2年五十人組が結成されるとこれに加わり、

中岡慎太郎の組に入って活躍

文久3年同郷の千屋寅之助に誘われ勝海舟の門に入り

龍馬とも知己を深め航海術を学ぶ。

土佐勤王党への弾圧が始まり

勝塾で学ぶ土佐の塾生にも帰国命令が出ますが、

坂本龍馬や高松太郎ら多くの同志が脱藩する決意で修行を続ける中、

金馬は勝海舟と相談の上一旦土佐へ帰国

金馬は海舟に可愛がられ、

脱藩を決意して訪れた時に白地の筒袖を貰った話も

しかし土佐では身の危険を感じ元治元年に脱藩して長州へ亡命

浪人部隊である忠勇隊に所属

土佐脱藩者の松山深蔵や久留米の真木外記が隊長を

中岡慎太郎や池内蔵太も所属

禁門の変にも参加

忠勇隊では大砲の照準係として活躍

土佐の同志吉井源馬らと回天隊を組織

対馬へ渡るなど活動を続け

中岡慎太郎らの周旋で再び長州で高杉晋作の保護を受け

三田尻の長州海軍へ

士官見習で庚申丸に乗り込み慶応2年の馬関海峡戦で活躍

再び龍馬に誘われ海援隊に参加

大極丸に乗りこみ活躍しています。

龍馬の死後は、その航海術や実務経験を買われて

土佐商会所有の順海丸の船長

琵琶湖に西洋型船を初めて浮かべている

維新後は大津裁判所湖水判事を務めた。

神戸において米人ワッチと事業を計画、

京都に外国人を案内した行為が当時の法に触れ

永禁固に処せられ高知で服役

明治6年には海軍少主計となり、横須賀海軍に

龍馬の妻であったお龍が再婚する時には媒酌人を

明治27年51歳で死去。




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