古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~12

2012-11-30 05:25:13 | 長崎の歴史
~英学の師フルベッキ~3


大隈はここで大変な秀才ぶりを発揮したらしく、

フルベッキが

「私は二人のごく有望な生徒をもった。

 それは副島種臣と大隈である。

 彼らは新約聖書の大部分を研究し、

 アメリカ憲法の大体を学んでしまった」

と賞賛した話が伝えられています。

そののち大隈は、さらに英学を広めるために

みずから「致遠館」という私塾をつくり、

フルベッキを校長に迎え、

自分も教師になって学習に励みました。

これがのちに早稲田大学の原点となったのです。

フルベッキは、明治政府の成立後東京に出て、

大隈らの推薦で開成学校・華族学校・

明治学院の教師や政府の翻訳顧問などをつとめ、

さらには旧約聖書翻訳委員や

ナポレオン法典を紹介するなど多面的に活躍しました。

しかし、1897年(明治30)東京で没し、

青山墓地に葬られました。




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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~11

2012-11-28 10:05:04 | 長崎の歴史
~英学の師フルベッキ~2


フルベッキは、オランダのユトレヒトに生まれ、

幼い時ギュツラフ博士の講演を聞いて

東洋への伝道を夢見た。

工業学校を卒業したのち、

しばらく鋳物工場で働き

成人して1852年に米国に渡り、

設計技師として働いていたが、

炎暑に倒れ死線をさまよった時、

「回復したら一生を伝道に捧げます」

と祈り、病癒えると

神学校に学んで敬虔なキリスト信者となります。

日本は1854年(安政元)に日米和親条約を結び、

1858年(安政5)に欧米諸国と通商条約を結んで開国。

日本への宣教師が派遣されることになり、

かねてからアジアへの布教を希望していたフルベッキが

それに応募し、同僚とともに1859年(安政6)に

新婚の夫人を伴い長崎に来たのでした。

29歳の時です。

キリスト教の伝道のかたわら、

塾を開いて日本の青年たちに英学を教える仕事を始めます。

佐賀藩の役人として長崎にきていた大隈が、

この英学塾で学び、大きな影響を受けたのです。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~10

2012-11-26 05:25:12 | ホームページ更新
~英学の師フルベッキ~1


もしフルベッキが来日しなかったら、

今日の早稲田大学は無かったかも知れない。

なぜなら、幕末に長崎にきた彼が、

キリスト教布教のかたわら英学を教え、

そこで学んだ大隈がやがて日本の近代化をめざして、

東京専門学校を創立することになったからです。

それほど彼は、

若き大隈の識見と人格形成に大きな影響を与えた。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~9

2012-11-24 05:45:21 | 長崎の歴史
~フルベッキ写真~4


この写真の話題は

間歇的に復活して流行する傾向がある。

ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は

22人であったが、流通する度に徐々に増加。

現在では44人全てに維新前後の有名人物の名がつけられている。

また、大室寅吉という名で

後の明治天皇が写っているとした説や、

「明治維新は欧米の勢力

(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論、

偽史の「証拠」とされる例もある。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~8

2012-11-22 05:45:05 | 長崎の歴史
~フルベッキ写真~3


また、2004年(平成16)には、

朝日新聞、毎日新聞、日経新聞に

この写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。

東京新聞が行った取材では、

各紙の広告担当者は

「論議がある写真とは知らなかった」

としている。

また、業者は

「フルベッキの子孫から受け取ったもので、

 最初から全員の名前が記されていた」

と主張している。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~7

2012-11-20 05:25:15 | ホームページ更新
~フルベッキ写真~2


1974年(昭和49)肖像画家の島田隆資が

雑誌『日本歴史』に、この写真には

西郷隆盛・高杉晋作・勝海舟・坂本龍馬・

大隈重信らが写っている

とする論文を発表した。

(翌々年にはこの論文の続編を同誌に発表)

島田は彼らが写っているという前提で、

写真の撮影時期を1865年(慶応元)と推定。

佐賀の学生として紹介された理由は、

敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、

偽装されたものだとした。

この説は学会では問題にされなかったが、

一時は佐賀市の大隈記念館でも

その説明をとりいれた展示を行っていた。

また、1985年(昭和60)には

自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、

話題にしたこともあったという。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~6

2012-11-18 06:35:26 | ホームページ更新
~フルベッキ写真~1


「フルベッキ写真」とは、

フルベッキとその次女・エマ

(夭逝した長女と同名)を囲んで、

致遠館の塾生と岩倉具定・具経兄弟などが集まり、

写真師上野彦馬によって撮影された写真。

現在の研究では、

撮影時期は1868年12月

(明治元年10月~11月)頃とほぼ特定されている。

この写真は古くから知られており、

1895年(明治28)には雑誌『太陽』で

佐賀の学生達の集合写真として紹介された。

その後1907年(明治40)に発行された

『開国五十年史』(大隈重信監修)にも

「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」

とのタイトルで掲載されている。


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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~5

2012-11-16 06:35:28 | 長崎の歴史
フルベッキは7男4女をもうけた。

来日して間もなく生まれた女の子は、

日本にちなみ、エマ・ジャポニカ・フルベッキ

(1860年1月26日~2月2日)

と名付けられた。

短い生涯を閉じたこの娘は、


稲佐国際墓地に埋葬された。

息子のグスタヴ

(Gustave Verbeek、1867年~1937年)

はアメリカに渡り、

ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家となった。

また、孫のウィリアム・ジョーダン・ヴァーベック

(William Jordan Verbeck、1904年~)

は陸軍士官学校を卒業後、

アメリカ陸軍第24師団歩兵第21連隊長として

太平洋戦争に従軍、

レイテ島・リモン峠で第一師団と戦った。

彼については、大岡昇平の『レイテ戦記』に紹介されている。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~4

2012-11-14 05:45:14 | 長崎の歴史


また、オランダで工科学校を卒業した経歴から、

工学関係にも詳しく

本木昌造の活字印刷術にも貢献している。

来日時、長崎の第一印象を

「ヨーロッパでもアメリカでも、

 このような美しい光景を見たことはない」

と記している。

上野彦馬が撮影したフルベッキの写真が

長崎歴史文化博物館に残されている。


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