古美術 崎陽

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幕末期 長崎で活躍した人 勝 海舟 補足

2009-05-25 12:01:54 | 長崎の歴史
長崎海軍伝習所

 嘉永6年(1853年)、浦賀にペリー艦隊が来る、黒船が来たと大騒ぎになる。

 幕府に開国を迫ると、阿部正弘、老中首座は幕府の考えだけで鎖国を解くのに

 海防に関する意見書を幕臣、諸大名、全ての人に求めた。

 勝も海防意見書を出す。これを阿部正弘が取り上げ、

 幕府海防掛の大久保忠寛に進言をする。

 これにより役入りをし勝の出世に繋がり長崎の海軍伝習所に赴任。

 オランダ語のおかげで教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。

 長崎に5年間過ごし、この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬と会い知遇を得て、

 後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。


    アメリカ渡航

 1860年、咸臨丸で太平洋を横断、アメリカ・サンフランシスコ港についた。

 旅程は37日で、岩瀬忠震ら、一橋派の幕臣らが米国渡航の計画をした。

 しかし彼らは安政の大獄で引退をした、木村摂津守が軍艦奉行。

 (艦長)遣米使節として勝は乗船したとあるが?

 米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗した。

 通訳ジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。

 咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、

 実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、

 ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。

 福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、

 実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、

 勝は「教授方取り扱い」という立場であった。

 アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいた。

 アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。


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幕末期 長崎で活躍した人  坂本 龍馬

2009-05-21 09:57:03 | 長崎の歴史
『坂本 龍馬』天保6年11月15日(1836) - 慶応3年11月15日(1867年)
 

 別名才谷梅太郎、諱は直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)

 幕末の日本の政治家・実業家、土佐藩脱藩後

 貿易会社と政治組織の亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還。

 文久2年(1862年)沢村惣之丞と龍馬は脱藩、江戸の千葉道場に身を寄せる。

 千葉重太郎を介して幕府政事総裁職の松平春嶽から紹介され、勝の弟子となる。

 文久3年(1863年)勝の進言する神戸海軍操練所を開設にはたらく。

 また神戸海軍塾の塾頭になり、元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が開設。

 勝・松平春嶽の働きで脱藩の罪を山内容堂から許され護衛に龍馬は岡田以蔵をつけ。

 藩の弾圧で龍馬は再脱藩、京の尊攘過激派の弾圧が激しく、

 禁門の変は池田屋事件の報復。

 京の尊攘過激派の弾圧が激しくなりを、禁門の変は池田屋事件の報復。

 海軍塾は長州側がいたために幕府から弾圧、勝も解任された。

 龍馬は勝の紹介で西郷吉之助を頼って大阪の薩摩藩邸に庇護される。

 慶応元年(1865年)京の薩摩藩邸に龍馬の所に中岡慎太郎がくる。

 薩長同盟への働きを中岡と共に始める。

 亀山社中、のちに海援隊を土佐脱藩の仲間と共に薩摩藩の働で開設。

 物産・武器・軍艦の貿易を行った。

 グラバー商会(イギリスのジャーディン・マセソン商会の直系)の信用を得ていた。

 薩摩藩名義で香港のマセソン商会の信用状で、

 長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に売った。

 大久保利通の命で「非義勅命は勅命にあらず」書簡を

 龍馬は重大な任務を受け長州藩重役に届けた。

 西郷隆盛と桂小五郎(木戸孝允)は坂本龍馬の働きで薩長同盟が結束。

 盟約書の裏書を桂の求めで龍馬が書いた。

 一介の素浪人が保証を、大藩同士の同盟に行った。

 この時代に龍馬の信用が大きい物であった判るでしょう。

 寺田屋で裏書の時、幕府に襲われ、鹿児島に傷の静養に妻おりょうと行く。

   (日本初の新婚旅行と言われてます)

 第二次長州征伐で亀山社中の船・ユニオン号

 薩摩藩名義でグラバー紹介より買い「桜島丸」となり、

 長州藩に渡され「乙丑丸」となり長州藩海軍を支援。


 慶応3年(1867年)、土佐藩の働きにより海援隊を開設。

 4月、いろは丸沈没事件で御三家紀州藩に損害を賠償させる。

 船中八策を龍馬がつくり、後藤象二郎が土佐藩主をとうして将軍に進言する。

 大政奉還を実現させた、龍馬の働きは日本の宝になると筆者は思います。

 京都の近江屋で何者かに龍馬(龍馬の誕生日は命日)と中岡慎太郎は暗殺された。

 明治4年、龍馬の姉千鶴の長男高松太郎を龍馬の跡継ぎとする。

 龍馬の跡を継いで坂本直。 墓は京都霊山護国神社参道中腹。

 靖国神社に祀られている。


 慶応3年11月15日の暗殺された日に龍馬は風邪を引いた。

 その日に岡本健三郎(土佐藩士)中岡慎太郎(陸援隊)画家の淡海槐堂等が訪ねてきた。

 その後、十津川郷士数人に近江屋の母屋の二階で惨殺

 龍馬達は襲われた時油断しており、刀をさしていなかった。

 中岡は重傷だったが意識もあり事件の証言をして数日後亡くなる。

古美術 崎陽

幕末期 長崎で活躍した人  勝海舟

2009-05-19 15:03:19 | 長崎の歴史

      勝 海舟 文政6年(1823)-明治32年(1899)幕臣政治家

 通称・麟太郎、名は義邦、のち安房。蘭学・兵学に通じ安政2年(1855)、

 著書翻訳掛かりを命じられ大久保一翁に従い大坂近海、伊勢、紀伊の海岸巡視。

 9月、長崎に赴き海軍伝習所で蘭人教官に学びながら伝習生の指導に当たった。

 安政3年(1856)、長崎滞在中講武所砲術師範役を命じられている。

 1857年(安政四年)、カッテンディケを隊長とする。

 第二次海軍伝習の派遣教官団37名が、ヤパン号で来航した。

 咸臨丸(もともとの名前はヤパン号)は幕府がオランダに頼んで造ってもらった船で
 
オランダ(1855年7月)で起工、1857年3月完成後長崎海軍伝習所の練習艦となる

 勝は第一次海軍伝習で中心的役割を果たした。

 安政5年(1858)36歳の時、咸臨丸で九州巡航、薩摩で島津斉彬に謁し知遇を得た。

 軍艦操練所教授方頭取を命じられた。万延元年(1860)、

 日米修好通商条約の批准書(1860年)を交わす ため、

アメリカ軍艦ポーハタン号にて遣米使節団一行を乗せて、浦賀を出港

太平洋を横断してサンフランシスコ湾入港、最悪の事を考え

勝海舟は艦長で軍艦奉行木村摂津守以下90余名と咸臨丸も伴走、

一緒にジョン万次郎、福澤諭吉らも同行。

 日本軍艦に搭乗して、初めて、太平洋を横断。

 元治元年(1864)2月、長崎に急遽派遣され、

 英米仏蘭連合艦隊の下関攻撃の調停約、5月、軍艦奉行となり安房守と称した。

 海軍操練所では広く諸藩の人材を育成、幕府の主流派からは離れたが

 幕府海軍の育成に尽力。征東軍に対しては幕府側を恭順に導き、

 西郷隆盛と会見して江戸開城とした。維新後は参議兼海軍卿。  

 明治7年(1874)正4位。翌8年、元老院議官に任ぜられたが、辞した。

 明治20年(1887)、伯爵となった。叙正2位。東京都大田区洗足池畔が墓所。

   著書、「亡友帖」「断腸之記」「吹塵録」「海軍歴史」

      「外交余勢」「幕府始末」「全国貨幣総数大略」


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幕末期-8  長崎で活躍した人

2009-05-17 10:48:31 | 長崎の歴史
 岩佐純 天保7.5.1(1836.6.14)~明治45.1.5(1912)

 明治時代の医学者。近代日本医学の学制を築いた。

 越前国(福井県)元三上町の医師玄珪の長子。幼名又玄。

 坪井信良,坪井芳州,佐藤尚 中らに医学を学ぶ。

 また長崎に遊学しポンペに師事,万延1(1860)年福井藩主の執匙侍医となる。

 元治1(1864)年再度 長崎でボードインより医学の伝習を受ける。

 明治2(1869)年医学校創立取調御用掛となり,

 相良知安と共に医学教育制度の範をドイツにすることを力説し,実現する。 

次いで学校権判事,文部大丞,宮内省大侍医,宮中顧問官に累進。


 高等官1等になり男爵を授けられる。墓所は東京都品川区の天竜寺。 

<著作>『急性病類集』


 明治六年、東京府立病院の設置に伴い、岩佐純がその初代院長に就任した 

大学東校にあって、岩佐純、相良知安などとその基礎を作る。


 相良知安、岩佐純等は医科大学の創立・学制創定の困難を極め

 医道取調御用掛として相良知安はドイツ医学輸入をフルベッキと会談。

 (筆者の考えでは当時のドイツの医療技術学問は世界一である) 

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幕末期ー7  長崎で活躍した人

2009-05-16 17:43:51 | 長崎の歴史

司馬 凌海 幕末~明治初期の蘭方医。

 天保10年11月28日(1840)‐明治12年(1879)(新潟県佐渡市)生まれ。

 諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称。本名は島倉亥之助

 1850年(嘉永3年)江戸に出、のち下総国佐倉の順天堂で蘭学を学ぶ。

 57年(安政4年)松本良順に従って長崎にいき、ポンペから医学を学んだ。

 帰郷して開業後、68年(明治元年)東京に出て医学校三等教授となり、

 のち少博士、兵部省病院、文部省・宮内省五等出仕などを歴任し、75年退官。

 この間、東京下谷練塀町で日本初のドイツ語塾春風社を開く。

 語学の天才で通じない外国語はないといわれた。

 独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。

 特に松本順、ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、

 医学用語の日本語訳を多く作っている。

 安政4年(1857年)18歳で、師の松本良順と長崎へ行き

 オランダ軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトに学ぶ。

 文久元年(1861年)、ポンペに破門される

 文久2年(1862年)、「七新薬」を著し、尚新堂から刊行。

 肥前国松浦郡平戸で平戸藩医師・岡口等伝の娘の婿になる。

 子が生まれる(長男・司馬亨太郎)

 祖父伊衛門により佐渡に連れ戻される 横浜に出る 、

 江戸の下谷練塀町で私塾「春風社」を開く

 教え子に生田秀(ビール醸造)、清水郁太郎(医学者、東京大学教授)

 明治元年(1868年)、医学校(現・東京大学医学部)三等教授。

 明治3年(1870年)3月、少博士・正七位、

 明治3年(1870年)7月、少助教

 明治5年(1872年)1月、大学大助教 後に文部大教授

 明治5年(1872年)、日本最初のドイツ語辞典「和訳独逸辞典」を出版。

 但し、「孛和袖珍字書」という辞典も同時期に出ている。

 日本初というのは辞典、辞書の定義によると思われる。

 明治8年(1875年)5月、元老院少書記官

 明治8年(1875年)12月に辞職、

 明治9年(1876年)公立医学所(後に愛知医学校、愛知県立医学校と改称)

 (現・名古屋大学医学部)教授 教え子に後藤新平

 明治10年名古屋で開業

 明治12年(1879年)3月11日に肺結核で死去。享年39。

  著書 [編集]

 七新薬 (司馬凌海 著、関寛斎 校)

 和訳独逸辞典(日本最初のドイツ語辞典)

 独逸文典字類 (明治4年)

 ドイツ語はドイツ草書体で表記していて、品詞も記載されている。

 アルファベット順(ドイツ語)で記載。

 朋百氏薬論 (訳、明治2年) ポンペの薬物学講義を翻刻したもの

 薬物学(別題「百氏薬性論」)

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幕末期ー6 「長崎で活躍した人々」

2009-05-15 13:56:41 | 長崎の歴史
 1866年幕府軍は長州征伐で敗退した。

 この時良順は大阪城で病む将軍家茂公を治療しその臨終を見取った。

 幕府の海陸軍軍医制を編成し、総取締になり、

 戊辰戦争では会津城内に野戦病院を開設した。

 明治4年山県有朋の請いにより陸軍軍医部を編成し、

 1871年初代軍医総監となった。

 牛乳を飲むことと海水浴をすることを日本に定着させた。

 1911年に76歳で没した。

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幕末期ー5

2009-05-14 15:40:20 | 長崎の歴史

   ポンペの教え子「長與 專齋」

 肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。

 大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後

 安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門

 やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。

 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて

 オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。

 その後、ポンペの後任マンフェルトに師事

 医学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)

 長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任。

 明治4年(1871年)、岩倉遣欧使節団の一員として渡欧し

 ドイツやオランダの医学及び衛生行政を視察し明治6年(1873年)に帰国。。

 明治7年(1874年)文部省医務局長に就任。

 また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務。

 明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管される

 衛生局と改称して、初代局長に就任。

 コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し衛生思想の普及に尽力。

 「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。

 明治24年(1891年)に衛生局長を退いて後も、元老院議官、貴族院議員

 宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任。

 また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会

 (のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任。

 医学界及び衛生行政に重きをなした。


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幕末期ー4

2009-05-13 16:26:59 | 長崎の歴史
ポンペは(1829年 - 1908年)は、オランダ海軍の軍医。

 ユトレヒト大学で医学を学び軍医となった。

 幕末に来日し、オランダ医学を伝えた。

 1862年に63名に卒業証書を渡し帰国した。

 ポンペのもとで学んだ松本良順、司馬凌海、岩佐純、長与専斎。

 日本での滞在期間は安政4年(1857年)~文久2年(1862年)までの5年間。

 1863年良順は江戸に帰り、西洋医学所頭取となった。

 良順は医学校で兵書を読む学生が多いのに憤慨

 医学書のみを読むべしと兵書と文法書講読の禁令を出した。

 煮えたぎる擁夷熱に冒された医学生のごうごうたる非難を受けたという。

 前頭取の緒方洪庵の学風は蘭学を広い分野に応用することを認め、

 大村益次郎、福沢諭吉のような多彩な人々が輩出したが、

 良順そして順天堂の学風は医業専一であって、

 佐藤尚中、関寛斎のような医人が育った。 

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幕末期-3

2009-05-12 12:09:25 | 長崎の歴史
(3)
 ときの長崎奉行岡部駿河守長常はポンペと良順に好意的で

 医学校建設に助力を惜しまなかった。

 1859年井伊大老から突然オランダ人海軍伝習教官の帰国命令が出されたとき、

 良順は岡部駿河守と共に医学伝習の存続に骨を折り、ポンペは残留した。

 1860年ロシア兵の長崎寄港の際、遊女の梅毒検査を実施した。

 1861年9月養生所が完成、良順はその頭取となった。

1857年11月、ポンペによる開講で医学伝習所は市内外浦町に所在したが、

年内に大村町に移転。

医学伝習所の後身たる養生所・医学所は小島郷字稲荷岳に 開設され、

「小島養生所」と称された。この小島校地は精得館・医学校へと継承され

第五高等中学校時代まで存続した。



   「養生所建設には大変な苦労があった?」

 幕府に良順とポンペが願いをしていた(小島養生所)の建設許可が下りた。

 当時の大老・井伊直弼が良順たちの要望を受け入れ許可と予算をつけた。

 井伊直弼は、開国派の中心的な人物であった。良順たちの理解者・井伊直弼。

 安政7年(万延元年)3月3日、雪の桜田門外で暗殺。


  「医学は長崎から」

 浦上にある長崎大学医学部に行くと。キュンストレーキや良順の資料、

 解体新書や人体解剖図の本、永井隆先生の直筆報告書。

 などがあるそうです。 


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幕末期の長崎で活躍した人

2009-05-11 10:56:31 | 長崎の歴史
(2)
 ポンペの医学校建設の志に共鳴した良順は

 まず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう努力した。

 そのころ蘭医学は禁じられていたので、

 他藩からの医師は良順の弟子ということにして

 ポンペの講義を受けることができるように取り計らった。

 1857年11月12日ポンペは西役所の一室で(現在の長崎県庁)

 松本良順とその弟子達12名に最初の講義を行なった。

 その日が長崎大学医学部の創立日である。

 ポンペは、この日から五年間、生徒たちを、熱心に教育した。

 また診察治療は1万3千人以上になる。
 
 次第に多くの医師が集まり手狭となった西役所の一室から

 大村町の元高島秋帆宅に移った時、

 良順は病院を付置した医学校建設を決意した。
(後の長崎大学と付属病院である)

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