五代 友厚-83 2016-06-28 05:05:17 | 長崎の歴史 このような最悪の状況下にもかかわらず、 実質大久保専制政治であることに対する民衆の不満、 佐賀の乱を始めとする士族の乱、 板垣退助が新規で作った自由民権運動、 岩倉が士族に襲撃されるなど不穏な政情が世を覆っていた。 長崎の歴史
五代 友厚-82 2016-06-26 05:35:16 | 長崎の歴史 大阪会議 大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・ 木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・ 伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ大阪会議は 明治8年(1875年)2月に明治政府の要人である 大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、 今後の政府(立憲政治の樹立)および 参議衆就任等の案件について協議した 明治憲政史上特筆すべき重大会議である。 会議にいたる背景は、征韓論をめぐる 明治6年10月政変で政府首脳が分裂した結果、 征韓派の西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、 政府を去りました。 残った要人、大久保を中心に岩倉具視・ 大隈重信・伊藤博文らで政府の再編を目指すのだが、 直後に台湾出兵をめぐる対立から 長州閥トップである木戸までが職を去る事態に陥り、 大久保一人が政治を任される専制体制になった。 長崎の歴史
五代 友厚-81 2016-06-23 07:05:17 | 長崎の歴史 友厚は先にあげた諸鉱山のほかにも和気銅山(備前)、 大久保銅山(大和)、神崎鉱山(豊後)、 鹿籠金山(かごきんざん)(薩摩)、新慶銅山(美作)、 大立銀山(おおだてぎんざん)(播磨)、水沢鉱山(伊勢)、 豊石銅山(石見)、助代銀山(すけだいぎんざん) (薩摩)などの開鉱を手掛けていった。 まさに鉱山王だったのである。 長崎の歴史
五代 友厚-80 2016-06-20 07:02:45 | 長崎の歴史 当初、松友社なる名義で鉱山経営を行っていたが、 6年、鉱山経営の規模拡大を図るため波江野休衛、 堀孝之、岩瀬公圃、氷見米吉郎、久世義之助らと計り、 資本金数十万円を投じて大阪に弘成館を創設した。 弘成館の組織は事務部門である 「内部」と現業部門である「外部」とに分かれ、 内部には総事、正検、出収、調進の四課が、 また外部には出収、坑鋪、鉱石、溶解、 機械、営繕、調進の七課がおかれた。 そして内部は総事、外部は鉱長がその指揮に当たった。 弘成館規則は館員の任免、俸給、賞罰、恩給、救済、 旅費などの細則に至るまで、きめ細かく整備されていた。 翌7年には佐渡金山、 生田銀山と共に我が国三大鉱山と並び称された 半田銀山を経営することになったため、 新たに東京築地入船町に出張所を設け、 これを東弘成館、大阪の方を西弘成館と呼ぶようになった。 西館は波江野、堀、 東館は岩瀬がそれぞれ主任理事として取り仕切った。 館中役員が一時西館だけでも二百名を超え、 鉱夫その他の現業員は数万にも及んだといわれる。 こうした弘成館の組織は多くの人たちの注目を集め、 賞賛を浴びた。 長崎の歴史
五代 友厚-79 2016-06-18 06:25:11 | 長崎の歴史 鉱山業はかつて五代才助上申書や 薩白合弁商社構想の中で富国策の一つとして 掲げていた事項でもある。 政府も国策上、鉱業を重視し、 フランス人技師コワニーらを招き、 主要鉱山は政府直轄とする方針をとった。 明治4年9月には工部省鉱山寮がおかれ、 鉱山行政、官行諸鉱山の経営に当ることになった。 こうしたなか、 友厚は3年5月に大和国天和銅山の 開発に着手したのを手始めに、 赤倉銅山、栃尾銅山、駒帰村辰砂鉱、 峯谷銀山など次々と開坑していった。 長崎の歴史
五代 友厚-78 2016-06-15 06:35:38 | 長崎の歴史 弘成館 西弘成館と呼ばれた 大阪の弘成館金銀分析所の 経営維持を図るため金銀の 入手が必要となり、 友厚は一歩進んで鉱山業を 手掛けることとなった。 長崎の歴史
五代 友厚-77 2016-06-12 05:35:40 | 長崎の歴史 また、造幣局の桜の通り抜けは、 「局長だけの花見ではもったいない。 大阪市民の皆さん方と 共に楽しもうではないか。」 という五代の提案により始まった。 長崎の歴史
五代 友厚-76 2016-06-10 05:35:31 | 長崎の歴史 五代は新政府の要人に知り合いが多く、 特に大久保利通に信頼されており、 新貨幣製造のことも 大久保から話を持ち掛けられたようだ。 彼は旧知の英国商人、 トーマス・グラバーに会い、 香港に英国の造幣機が使われぬままに、 という情報を得て、 グラバーを通じて英国政府と交渉し、 格安の6万両で購入する道を開いた。] そしてその造幣機を用いて西洋式の 「造幣寮」を建築し、 国家的な特大プロジェクトとなっていった。 長崎の歴史
五代 友厚-75 2016-06-08 06:55:52 | 長崎の歴史 造幣寮の設立 造幣局の桜の通り抜け幕末から維新へ、 長崎を中心に 外国との交易が盛んになるにつれて、 日本通貨の欠陥が明らかになってきた。 幕府の金銀貨幣は質にばらつきがあり、 金と銀の交換比率が 国際基準と大幅に異なっていた。 各藩が藩札を発行し、 偽造通貨も出回っている状況だった。 このような状況を脱出し、 日本が近代的な経済国家になるには、 何を置いても国際的に 通用する通貨が必要だった。 ところが欧米式の貨幣をどう作ったらいいのか、 その手がかりが無い。 そこで活躍をしたのが五代友厚である。 長崎の歴史
五代 友厚-74 2016-06-06 06:55:16 | 長崎の歴史 当初の開業資金10万円は紀の庄という 屋号の両替屋の九里正三郎から借り、 西成区の別荘まで工場に借り受けた。 金銀を全国から買い集めては潰し、 地金にして造幣局(寮とも改変)に納める。 その利益で買い増ししてまた納める。 これで巨万の富をため、 産業界進出の礎としたという。 長崎の歴史