鍋島直正-17 2015-08-31 06:35:06 | 長崎の歴史 直正が明治維新が始まってから間もなくに世を去ったことも、 肥前勢力が中央で薩長閥に比べて相対的に小さくなった一因でもある。 直正の残した人材は、 明治六年政変(征韓論政変)による江藤新平・副島種臣の下野や、 続いて発生した佐賀の乱により、 明治政府において直正の構想を十分に 実現するまでには至らなかったとはいえ、 日本が近代化していく中で極めて大きな役割を果たしていくことになった。 島津斉彬に並びうる数少ない幕末期の名君とする評もある。 長崎の歴史
鍋島直正-15 2015-08-27 05:15:32 | 長崎の歴史 8月16日に岩倉具視と同じ大納言に転任した。 財政基盤が弱かった新政府に代わり、 旧幕府軍との戦いの褒賞を割って開拓費用に当て、 諸藩に先んじて佐賀藩の民を移住させたほか、 満州開拓、オーストラリアでの鉱山開発などを提言するなど、 以後50年先に待ち受ける、 外交、食料、資源などの問題を見通していた。 長崎の歴史
鍋島直正-14 2015-08-24 04:45:13 | 長崎の歴史 廃藩置県に知藩事(大政奉還後の藩主)として最初に賛同したほか、 明治2年(1869年)6月6日、蝦夷開拓総督を命ぜられ、 旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用、 7月13日には初代開拓使長官に就任したが、 蝦夷地へ赴任することなく、 長崎の歴史
鍋島直正-13 2015-08-22 04:55:10 | 長崎の歴史 明治政府が近代化を推し進める上で、 直正が育てた人材の活躍は大きく (佐賀の七賢人と田中久重の項も参照の事)、 直正自身も議定に就任する。これらにより、 討幕運動には不熱心であった佐賀藩であったが、 薩長土肥の一角を担う事となった。明治元年(1868年)に直正と改名。 長崎の歴史
鍋島直正-12 2015-08-18 05:15:12 | 長崎の歴史 鳥羽・伏見の戦いの時に上京中で藩主も家老も京都に不在だったため、 薩摩藩からは佐賀征伐を主張する声が挙がったが、 薩長(薩摩藩・長州藩)側が勝利に終わって以降は 上京した佐賀藩も新政府軍に加わり、 戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、 最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかった。 長崎の歴史
鍋島直正-11 2015-08-16 06:55:23 | 長崎の歴史 盟友であった大老の井伊直弼が桜田門外の変で横死した後の、 激動の中央政界では佐幕、尊王、 公武合体派のいずれとも均等に距離を置いたため、 「肥前の妖怪」と警戒され、 参預会議や小御所会議などでの発言力を持てず、 伏見警護のための京都守護職を求めるものの実らず、 政治力・軍事力ともに発揮できなかった。 長崎の歴史
鍋島直正-10 2015-08-14 08:25:03 | 長崎の歴史 鍋島直正質素倹約と経営手腕を商人たちに 「そろばん大名」と呼ばれ、 『葉隠』に表される保守的な風土にいながら、 当時は医者の学問と侮蔑されていた 蘭学を「蘭癖大名」と呼ばれるまでに熱心に学び、 他藩が近代化と財政難の板挟みで苦しむ中、 財政再建と軍備の近代化に成功したが、 長崎の歴史
鍋島直正-9 2015-08-12 06:35:38 | 長崎の歴史 文久2年(1862年)12月25日、 上京した閑叟は関白近衛忠煕に面会し、 京都守護職への任命を要請している。 この時に閑叟は「長崎警備は他大名でも担当できるが、 大阪・京都の警備には実力が必要であり、 私であれば足軽30人と兵士20人の兵力で現状の警備を打ち破れる」 旨の発言をしている。 この件は他に島津藩などからの守護職要請もあり立ち消えとなった。 長崎の歴史