23代長崎奉行 牛込忠左衛門勝登(かつなり)
(1)寛文11年(1671)、新に市法貨物仕法を制定する。(2)同12年(1672)、長崎の市街を80町とした。
(3)同12年4月奉行は島原・天草を巡視した。(4)同11年(1671)、就任と同時に、奉行所が接近して二箇所に分かれていたのを外浦町(西役所)と立山役所に離して設置する事にした。
(5)延宝元年(1673)、立山役所を現在の立山町に移転設置した。
(6)水樋造成の功により本五島町の乙名倉田氏に「水樋掛」の世襲を許し、年銀二貫目を支給。
(7)同2年(1674)蘭船の運んで来た大馬を献上した。
(8)同年、奉行、野母、樺島で捕鯨状況を検分した。(9)同4年1月長崎代官末平蔵茂朝を逮捕、財産没収。
(10)同年、聖堂を立山に再興した(正保4年・1647、向井元升が東上町に建立したが寛文3年・1663に焼失した)。
(11)同年、外町の宅地を検べた。(12)同4年(1676)3月、島原侯と各所を巡視、深堀領主鍋島志摩の鹿狩
に参加。
(13)奉行が江戸へ出立するに際し、その度毎に商人たちの見送りの風習を禁じた。
(14)同6年(1678)2月、野母樺島、4月川原村に行き池を検分した。
(15)この奉行は、文学を好み、南部草壽(長崎聖堂教官)や彭城東閣(大通事)、林道栄(大通事・書家)らと深く交わり学問、詩学に秀でた。
ホームページ
(1)寛文11年(1671)、新に市法貨物仕法を制定する。(2)同12年(1672)、長崎の市街を80町とした。
(3)同12年4月奉行は島原・天草を巡視した。(4)同11年(1671)、就任と同時に、奉行所が接近して二箇所に分かれていたのを外浦町(西役所)と立山役所に離して設置する事にした。
(5)延宝元年(1673)、立山役所を現在の立山町に移転設置した。
(6)水樋造成の功により本五島町の乙名倉田氏に「水樋掛」の世襲を許し、年銀二貫目を支給。
(7)同2年(1674)蘭船の運んで来た大馬を献上した。
(8)同年、奉行、野母、樺島で捕鯨状況を検分した。(9)同4年1月長崎代官末平蔵茂朝を逮捕、財産没収。
(10)同年、聖堂を立山に再興した(正保4年・1647、向井元升が東上町に建立したが寛文3年・1663に焼失した)。
(11)同年、外町の宅地を検べた。(12)同4年(1676)3月、島原侯と各所を巡視、深堀領主鍋島志摩の鹿狩
に参加。
(13)奉行が江戸へ出立するに際し、その度毎に商人たちの見送りの風習を禁じた。
(14)同6年(1678)2月、野母樺島、4月川原村に行き池を検分した。
(15)この奉行は、文学を好み、南部草壽(長崎聖堂教官)や彭城東閣(大通事)、林道栄(大通事・書家)らと深く交わり学問、詩学に秀でた。
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