(9)
小曽根4兄弟
龍馬が活躍した当時、
小曽根家には長男乾堂、次男清三郎、
三男正雄、四男英四郎と4人の兄弟がいた。
英四郎は龍馬より6歳年下。
司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で描かれ一躍有名になった。
鉄砲の名手とされ、
丸山の遊郭に足しげく通ったという話も残る。
龍馬暗殺後の活動はほとんど伝わっておらず、
墓は晧台寺(長崎市寺町)にある。
清三郎は商人。
海援隊の密使を務めるなど龍馬に協力した。
「曽根拙蔵」の名で龍馬の手紙にしばしば登場する。
正雄は剣の達人で京都奉行に出仕し、
鳥羽伏見の戦い(1868年)で戦死した。
彼の存在は小曽根家と江戸幕府の深い関係を物語る。
本家の首領・乾堂は時勢をにらみつつ采配(さいはい)を振るい、
弟たちを巧みに使ったのだろう。
彼は金刀比羅(ことひら)神社(長崎市東琴平1丁目)近くの
鍋冠山中腹にある小曽根家本家の墓に眠る。
同神社の公園には「小曽根乾堂翁像」(1934年建立、58年再建)が立つ。
古美術崎陽
小曽根4兄弟
龍馬が活躍した当時、
小曽根家には長男乾堂、次男清三郎、
三男正雄、四男英四郎と4人の兄弟がいた。
英四郎は龍馬より6歳年下。
司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で描かれ一躍有名になった。
鉄砲の名手とされ、
丸山の遊郭に足しげく通ったという話も残る。
龍馬暗殺後の活動はほとんど伝わっておらず、
墓は晧台寺(長崎市寺町)にある。
清三郎は商人。
海援隊の密使を務めるなど龍馬に協力した。
「曽根拙蔵」の名で龍馬の手紙にしばしば登場する。
正雄は剣の達人で京都奉行に出仕し、
鳥羽伏見の戦い(1868年)で戦死した。
彼の存在は小曽根家と江戸幕府の深い関係を物語る。
本家の首領・乾堂は時勢をにらみつつ采配(さいはい)を振るい、
弟たちを巧みに使ったのだろう。
彼は金刀比羅(ことひら)神社(長崎市東琴平1丁目)近くの
鍋冠山中腹にある小曽根家本家の墓に眠る。
同神社の公園には「小曽根乾堂翁像」(1934年建立、58年再建)が立つ。
古美術崎陽