古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~小曽根乾堂~補足

2009-08-29 17:48:18 | 長崎の歴史
(9)

小曽根4兄弟

龍馬が活躍した当時、

小曽根家には長男乾堂、次男清三郎、

三男正雄、四男英四郎と4人の兄弟がいた。

英四郎は龍馬より6歳年下。

司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で描かれ一躍有名になった。

鉄砲の名手とされ、

丸山の遊郭に足しげく通ったという話も残る。

龍馬暗殺後の活動はほとんど伝わっておらず、

墓は晧台寺(長崎市寺町)にある。

清三郎は商人。

海援隊の密使を務めるなど龍馬に協力した。

「曽根拙蔵」の名で龍馬の手紙にしばしば登場する。

正雄は剣の達人で京都奉行に出仕し、

鳥羽伏見の戦い(1868年)で戦死した。

彼の存在は小曽根家と江戸幕府の深い関係を物語る。

本家の首領・乾堂は時勢をにらみつつ采配(さいはい)を振るい、

弟たちを巧みに使ったのだろう。

彼は金刀比羅(ことひら)神社(長崎市東琴平1丁目)近くの

鍋冠山中腹にある小曽根家本家の墓に眠る。

同神社の公園には「小曽根乾堂翁像」(1934年建立、58年再建)が立つ。


 
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幕末の長崎で活躍した人~小曽根乾堂~補足

2009-08-28 18:05:56 | 長崎の歴史

(8)

天領長崎を拠点とし、

いわば幕府の保護下で繁栄した長崎町人の小曽根家がなぜ、

倒幕勢力の龍馬に手を貸したのか。

乾堂は天下がどちらに転んでもいいように、

倒幕勢力にも投資して家の安泰を図ったのだろう。

彼には長崎の商人らしい嗅覚(きゅうかく)と先見の明があったとみる。

小曽根家の十七代当主、小曽根吉郎(きちろう)さん(61)は、

乾堂と龍馬が「日本を洗濯する」という信念で結び付いていたと信じている。

乾堂は万延元年(1860)の勝海舟あて書簡で

「軍艦五百隻の製造」と

「上海、ジャワ、仏、英、蘭に商館を開き、旭の旗を立たい」

という大望を披歴している。

吉郎さんは思う。

幕府の守旧派を除き、新しい国家をつくり、

大艦で世界へ乗り出す~

という龍馬の「世界の海援隊」構想は、

乾堂の夢そのものだった、と。

小曽根家に伝わる巻物「竹影翁伝」には次のような家訓が記されている。

 「商業ハ戦場也。資金ハ即チ兵士也」




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幕末の長崎で活躍した人~小曽根乾堂~補足~

2009-08-27 16:31:40 | 長崎の歴史
(7)

金銭面で援助した記録も残る。

英四郎は慶応2年10月、

亀山社中が帆船「大極丸」を購入した際の保証人になったり

(坂本龍馬手帳摘要)

翌3年4月には龍馬の借金六百両を肩代わりして返済している

(同年4月6日付龍馬書簡)

慶応3年4月、亀山社中が土佐藩傘下の「海援隊」に改編されると、

英四郎は龍馬と行動を共にした。

同隊チャーターの汽船いろは丸に会計官として乗り組み、

瀬戸内海で紀州藩船明光丸と衝突する事件にも遭遇している。




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幕末の長崎で活躍した人~小曽根乾堂~補足

2009-08-26 15:42:59 | 長崎の歴史
(6)

乾堂には三人の弟がいた。

龍馬ら志士の面倒を見たのは末弟の英四郎だ(1841~90)

乾堂は貿易業に乗り出し、

長崎港沿岸を埋め立てて造成した小曽根町に本居を移した。

本博多町の質商は英四郎が継いだ。

本博多の邸宅に隣接する別邸には亀山社中の事務所が置かれ、

龍馬と仲間が足しげく出入りした。

龍馬の手紙には

「長崎に出た浪士は小曽根を隠れ家にしており、

 既に私たちもそうしている」(慶応2年(1866)8月13日付)

という記述がある。

龍馬はそのころ、妻お龍も長期間小曽根家に預けていた。

小曽根邸は志士の「アジト」だったといっていい。



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幕末の長崎で活躍した人~小曽根乾堂~補足

2009-08-25 11:57:17 | 長崎の歴史
(5)

海外の文物が集まる先進地長崎の商人乾堂は、

時勢を冷静に見詰める「開明派」だった。

安政四年(1857)乾堂は江戸で越前藩主松平春嶽に会い、

次のように説いている。

「今や開港、貿易の機に至りました。

内は農、外は通商に励み、

その利益で西洋の兵器や機械を購入し、

志士を海外に留学させるべきでございます」

乾堂は開明派の幕臣勝海舟と大変親しかった。

勝は元治元年(1864)弟子の龍馬を連れて来崎した際、

乾堂に龍馬を紹介したとみられる。

乾堂は「時代を変える」と意気込む大柄な青年に

大きな魅力を感じたのではないだろうか。



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幕末の長崎で活躍した人~小曽根乾堂~補足

2009-08-24 16:34:29 | 長崎の歴史

(4)

時代見極めた豪商

慶応元(一八六五)年閏(うるう)五月ごろ、

薩摩藩の援助で「日本最初の商社」亀山社中を長崎に設立した坂本龍馬は、

大艦を手に入れて世界へ乗り出すという夢に向け、

最初の一歩を踏み出した。

事業には金も信用もいる。

土佐藩を脱藩した一介の浪人にすぎない龍馬は物心両面で後ろ盾を必要とした。

長崎屈指の豪商小曽根(こぞね)家は、

薩摩藩と共に龍馬を支えた重要な「パトロン」だった。



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幕末の長崎で活躍した人~小曽根乾堂~補足

2009-08-21 14:55:46 | 長崎の歴史
(3)

小曽根家・屋敷跡

長崎県庁前国道34号線の一本裏の道筋、

現在の長崎地方法務局の場所に小曽根家の屋敷があった。

この屋敷へは勝海舟、坂本龍馬などの志士がよく出入りしていた。

また、海援隊の近藤昶次郎(ちょうじろう)が

亀山社中との約束の中でイギリスへ独断で渡航しようとした疑いが発覚し、

小曽根邸の一室で切腹した。

晧台寺後山にある小曽根家の墓には、乾堂の墓はなく、

平戸道喜の墓碑と共に近藤昶次郎の墓があり、

墓石には坂本龍馬によって

別名「梅花書屋(ばいかしょおく)氏之墓」と刻まれている。




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幕末の長崎で活躍した人~小曽根乾堂~補足

2009-08-19 11:03:16 | 長崎の歴史
(2)

小曽根町の由来と浪の平小学校
 
小曽根の町名は小曽根乾堂に由来する。

乾堂は、文化人であるとともに事業家である。

彼の事業家としての最大の功績は、

安政6年(1859年)開国の年に、

現在の松ヶ枝、小曽根、浪の平一帯を自費で造営したことであろう。

この造営地はやがて外国人居留区になった。

その後、この一部が小曽根町と名付けられた。

乾堂は私立小曽根小学校も設立した。

この学校はその後、長崎市に寄贈され浪の平小学校となった。

さてその浪の平小学校は北大浦・南大浦と合併された。

いまは廃校された浪の平小学校の校舎は空き家になっている。



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