古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎で活躍した人~「司馬江漢」~6

2013-02-27 05:35:06 | ホームページ更新
補足~司馬江漢と生月捕鯨


天明8年(1788)から翌寛政元年(1789)にかけて、

江戸を発ち長崎旅行をおこなった。

その帰路、平戸を経て天明8年の暮れに

生月島に渡り、翌正月4日まで滞在している。

その間は鯨組主である益冨家に逗留し、

実際に鯨船に乗って

捕獲や解体・加工の様子を観察したり、

松本で大敷網の鮪漁を見物したり、

島の最高峰である孩子岳に登ったりしている。

その時の見聞の内容は、

寛政6年(1794)に刊行された『西遊旅譚』

(後に『画図西遊譚』という名称で再刊行される)

や『西遊日記』(文化12年・1815)に紹介された他、

油彩画の『捕鯨図』水墨淡彩の『捕鯨図巻』

などにも反映されている。

また千葉市美術館に収蔵されている

『日本風景図』についても、

生月島の松本海岸から見た風景を

左右反転させたものである可能性が高い。

『西遊旅譚』の遠近法を駆使した肉納屋図などは、

のちの捕鯨図説にも大きな影響を与えている。


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長崎で活躍した人~「司馬江漢」~5

2013-02-25 05:35:08 | ホームページ更新
晩年人付き合いが煩わしくなり、

文化10年(1813)自分の死亡通知を知人達に送った。

どうしても外出せねばならなくなり、

案の定知人と遭遇するや

返事もせず逃走するもごまかしきれず、

「死人は声を出さぬ」と答えた。

また、文化5年(1808)以降は

九歳加算した年を記し世を欺いた。

これは「九」という数字は、

周易においては陽の極地を表し、

『荘子』寓言編に

「九年にして大妙なり」

という言葉があることから、

江漢は「九」に大悟の心境を込めて加算したと考えられる。


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長崎で活躍した人~「司馬江漢」~4

2013-02-23 04:55:25 | ホームページ更新

寛永初期、日本における洋風画の開拓者として

秋田の小田野直武とともに重要な画家。

直武の作品が、遠近法、

明暗法などの西洋画法をとりいれつつ、

画材は伝統的な絵具と墨とを使用していたのに対し、

江漢は荏胡麻の油を使用して描いたことで特筆される。

江漢は、西洋画法と油彩の技法を駆使して

富士などの日本的な風景を描き、

それを各地の社寺に奉納することによって、

洋風画の普及に貢献した。

現存の代表作の「相州鎌倉七里浜図」は

もともと江戸の芝・愛宕山に奉納したもの。

社寺の壁などに掲げられる絵馬は傷みやすいものだが、

早い時期に社殿から取り外して保存されていたため、

保存状態がよい。

蝋油を使った蝋画の工夫などもしている。

日本最初の銅版画(エッチング)家でもあり、

天明3年(1783)その制作に成功した。

天文・地学、動植物など西洋博物学、

自然科学に興味を持ち、日本に紹介した。


『和蘭天説』や『刻白爾(コッペル)天文図解』

などといった啓蒙書も残した。


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長崎で活躍した人~「司馬江漢」~3

2013-02-21 05:55:03 | ホームページ更新
明和末年頃、鈴木春信の名前で錦絵を出す。

そして初期には鈴木春重名で、

明和7年(1770)に没した鈴木春信の

贋作絵師として安永初年頃まで活動。

春信に師事して、版下絵を描いていたとも。

安永初年から末年にかけて次第に独り立ちし、

蕭亭あるいは蘭亭の名で、肉筆画を残している。

自著『春波楼筆記』によると、

春信の死後、春信の落款で偽絵を描いていたが、

後に春重と署名するようになったと記されている。

春信の落款時代には、

背景に極端な遠近法を使用し、

浮絵の画法を取り入れていたが、

春重落款の作品ではより春信風になっている。



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長崎で活躍した人~「司馬江漢」~2

2013-02-19 04:55:39 | 長崎の歴史

安藤氏の子として延享4年(1747)江戸四谷に生まれた。

名は安藤吉次郎という。

のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。

字は君嶽、江漢は号である。

生まれつき絵を好み、

宝暦11年(1761)15歳の時父の死を切っ掛けに、

表絵師の駿河台狩野派の狩野洞春(美信)に学ぶ。

しかし次第に狩野派の画法に飽きたらなくなり、

明和半ば頃おそらく平賀源内の紹介で

南蘋派の宋紫石の門に入る。

ここで漢画の画法を吸収しつつ、

紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵を描いた。

ただし、初めに狩野派を学んだのは確かだが、

師事した順番は諸説あってはっきりしない。

後に洋風画を描くに至った。

源内と接点があり、

彼を通じて前野良沢や

小田野直武に師事したとも言われている


享年72。
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長崎で活躍した人~「司馬江漢」~1

2013-02-17 06:55:10 | 長崎の歴史
『司馬江漢』(しば こうかん)

延享4年(1747)~文政元年(1818)

江戸時代の絵師、蘭学者。

浮世絵師の鈴木春重は同一人物。

本名は安藤峻。

俗称は勝三郎、後に孫太夫。

字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。

また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号す。


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長崎で活躍した人~「ケンペル」~18

2013-02-15 18:28:23 | 長崎の歴史
長崎で活躍した人~「ケンペル」~18



補足~7


~江戸城にて将軍綱吉に謁見した時の思い出~


(将軍から命じられるままに)われわれは、

あるいは立ち上がって、

あちらへこちらへと歩いて見せたり、

あるいは互いに挨拶を交わしたり、

踊ったり跳ねたり、酔っ払いの真似をしたり、

片言の日本語を喋ったり、絵を描いて見せたり、

オランダ語とドイツ語で朗読したり歌ったり、

マントを着たり脱いだりした。

私はドイツの恋歌を1曲、私なりに歌った。

(中略)このようにして2時間も体のいい見世物となった。

なお、翌年にもケンペルは江戸参府し、

将軍の前で3時間半にわたって

「体のいい見世物」とならざるを得ませんでした。

さらにわれわれは、

夫が妻にどのように応対するか演ずるように言われ、

接吻をして見せたところ、

婦人たちはどっと笑った。

(中略)歌を聞きたいと言うので、

私が2曲歌ったところ、望外の大喝采を博した。

今日で「ケンペル」終了  次は 司馬江漢


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長崎で活躍した人~「ケンペル」~17

2013-02-13 05:25:42 | 長崎の歴史
補足~6


幕末における欧米の恫喝的な開国要求を

国家存亡の危機と捉えた人々が、

「日本は強い」などと呑気に構えているはずもありません。

かの横井小楠は、『鎖国論』をさらに深く読んで、

「ケンペルの時代とは状況が変わった」と言います。

「蒸気船の発明によって日本は

 ケンペルの言う絶海の孤島ではなくなった。

 もはや鎖国は、国防上も何ら意味も持たない」

と明言したのです。

横井のこの主張が、徐々に広まって大勢を占め、

「開国論」が当時の「攘夷論」を凌駕して行きました。



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長崎で活躍した人~「ケンペル」~16

2013-02-11 06:35:14 | 長崎の歴史
補足~5


このように褒められた場合に、

日本人には、今日でも2種類の反応があります。

エズラ・ボーゲルが

『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という書物で、

日本経済を絶賛した時、

「やはり日本は優れている」

と自信過剰になった日本人も多くいます。

その一方で、ボーゲルの指摘自体を

「幻想にすぎない」と否定し、

「本当は弱体な日本経済を建て直すべきだ」

と逆に警鐘を鳴らした一群の人々もおりました。

幕末にも、ケンペルの賞賛を笑い飛ばした

危機感の強い藩主や志士たちが多く存在し、

彼らが結局、日本を明治維新に導いたのです。




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長崎で活躍した人~「ケンペル」~15

2013-02-09 05:25:09 | 長崎の歴史
補足~4


ケンペルは日本人を以下のように褒めています。

 われわれは道中いろいろな人に出会ったが、

 下は賤しい百姓から、

 上は高貴な方々に至るまで、

 その挙措は慇懃丁重であり、

 この国全体を高等行儀作法学校と呼びたいほどで、

 行儀の良い点でその右に出る国民は、

 世界中のどこを探してもいないだろう。

 日本人は、思慮深くかつ好奇心の強い人々で、

 外国の物といえば何でも尊重し、

 手中の珠の如くに慈しむ。

 (中略)日本人は大胆で、勇敢で、

 胆の坐っている点で欠ける所がない。

 敵に対しては、身を鴻毛のように軽く見なし、

 冷静な勇気を失わず、

 自らの命を自ら絶つことも敢えて辞さない。

 着ている物はこざっぱりし、

 身体は清潔を保ち、習慣はすっきりしており、

 住居の掃除は行き届き、風雅である。

 (中略)手先が器用で頭の働きが良い点で、

 日本人は他の諸国民よりも優れている。

 (中略)日本人は無宗教の国民ではない。

 この国には自国固有の宗教もあり、

 また、各人が思いのままに信仰する神を崇める自由が

 国民に与えられている。

 道義の実践、敬神の務め、心の修養、

 罪業の懺悔(ざんげ)、永遠の幸福祈願などにおいて、

 日本人はキリスト教徒以上に熱心である。


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