江藤新平-14 2015-05-30 05:45:10 | HPの更新情報 大隈、板垣、後藤らの帰郷を思いとどまるようにとの 説得にもかかわらず 翌13日に離京。すぐには佐賀へ入らず2月2日、 長崎の深堀に着き様子を見る。 2月10日、佐賀へ向い11日、 憂国党の島義勇と会談を行い12日、 佐賀征韓党首領として擁立された。 そして、政治的主張の全く異なるこの 征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。 古美術 崎陽
江藤新平-13 2015-05-28 06:25:16 | ホームページ更新 下野から佐賀の乱まで 明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した 明治六年政変で西郷・板垣退助・後藤象二郎・副島と共に 10月24日に下野、明治7年(1874年)1月10日に 愛国公党を結成し12日に民撰議院設立建白書に署名。 古美術 崎陽
江藤新平-12 2015-05-26 05:45:25 | ホームページ更新 だが、その一方で欧米的な三権分立の導入を進める 江藤に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持つ 政府内の保守派からは激しく非難された。 また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、 大蔵省との確執を招いた。 古美術 崎陽
江藤新平-11 2015-05-24 07:05:18 | ホームページ更新 「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた 司法省達第二十二号(娼妓解放令)、 民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。 また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた 長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、 井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、 予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。 古美術 崎陽
江藤新平-10 2015-05-22 05:00:05 | ホームページ更新 文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると 明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。 その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。 特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など) に功績を残す。政府内における急進的な民権論者であり 古美術 崎陽
江藤新平-9 2015-05-20 05:55:46 | ホームページ更新 明治3年(1870年)1月には佐賀に帰郷して着座 (準家老)に就任して藩政改革を行うが後に中央に呼び戻され、 同年11月に太政官中弁となる。12月、 虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する。 明治4年(1871年)2月には制度取調専務として 国家機構の整備に従事し、 大納言岩倉に対して30項目の答申書を提出する。 近代的な集権国家と四民平等を説き、 国法会議や民法会議を主催して箕作麟祥らとともに 民法典編纂に取り組む。 古美術 崎陽
江藤新平-8 2015-05-18 07:15:10 | ホームページ更新 明治新政府の官吏として 戊辰戦争が一段落した新政府が設置した江戸鎮台においては 長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命され、 民政や会計、財政、都市問題などを担当する。 7月には江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、 江戸は東京と改称される。 古美術 崎陽
江藤新平-7 2015-05-16 06:35:25 | ホームページ更新 上野戦争で戦い彰義隊勢を上野寛永寺周辺に追い詰め、 さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する 戦術などにより彰義隊は瓦解する。 明治2年(1869年)には、維新の功により賞典禄100石を賜っている。 古美術 崎陽>
江藤新平-6 2015-05-14 07:15:39 | ホームページ更新 戊辰戦争で江藤は征東大総督府軍監に任命され、 土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。 薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定するや、 江藤は城内の文書類を接収する。さらに京都へ戻り、 大木喬任と連名で岩倉に対して江戸を東京と改称すべきこと (東京奠都)を献言する。 古美術 崎陽
江藤新平-5 2015-05-12 05:25:49 | ホームページ更新 15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行って幕府が消滅した慶応3年(1867年) の12月に新平は蟄居を解除され、郡目付として復帰する。 薩摩藩、長州藩は公家の岩倉具視と結び明治元年(1868年) の王政復古の大号令を行い、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し 新平は副島種臣とともに京都に派遣される。 古美術 崎陽