古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~中牟田倉之助(2)

2010-08-30 13:05:07 | 長崎の歴史
佐賀藩士「中牟田倉之助」

文久2年(1862)幕府の上海訪問団に加わり

藩命により千歳丸にて上海に渡る。

港や造船所を精力的に視察。

居留地で外国人に次々面会し、書籍や短銃を購入。

イギリス軍の砲台では

六門のアームストロング砲を詳細にスケッチし、

内心「一門でも持ち帰ることができれば」と切望した。

持ち帰った資料群は、藩士を刺激し、

欧米や科学技術への関心をさらにかき立てた。

大隈重信も、初めて西洋ろうそくやマッチを見た。

大隈はこの後、英学校開設を建言し、

長崎にできた「致遠館」の運営を担うことになる。


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幕末の長崎で活躍した人~中牟田倉之助(1)

2010-08-25 12:05:12 | 長崎の歴史
佐賀藩士「中牟田倉之助」なかむた くらのすけ

天保8年(1837)~大正5年(1916)

日本の海軍軍人。海軍大学校長、枢密顧問官、子爵。

幼名は武臣。

金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。


藩校弘道館に学び

佐賀藩主・鍋島直正の推薦で

安政3年(1856)20歳で長崎海軍伝習所へ入所

卒業後には三重津海軍所で

佐賀藩海軍方助役を務めて海軍力の発展を促す。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(17)

2010-08-21 13:05:09 | 長崎の歴史

補足~4


大隈は生涯、髭を伸ばしませんでした。

彼の生きた時代、地位からすると、

この一見些細な事実は大変なことでした。


この時代、髭はいわば権力の象徴として、

庶民を威圧するための道具でした。

それはちょんまげの代用品、

つまり、文明開化によって刀を奪われた武士たちにとって、

失いかけた権威を取り戻すための虚飾が髭だったようです。

こうした中で大隈は無髭を保ち続けた。

彼は生来髭が薄く、また清潔好きなところから、

これを伸ばさなかったのも事実です。

しかしそれ以上に、

彼は自己のポリシーとして蓄髭しなかったのです。

 「髭は戦争の道具みたいなものだ、武装的なものだ。」

ある時、このように語ったといわれます。

かつての戦国大名に見られるごとく、

敵を心理的に圧迫し、

領民に力を示すための偽装だと。

「民衆政治家」と呼ばれ、

広い国民層に抜群の人気があったのも、

この辺に一因があるのでしょう。

日本史上初の髭なき宰相でした。



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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(16)

2010-08-18 17:25:08 | 長崎の歴史
補足~3


教育に対する大隈の熱意は、

「明治14年の政変」で下野したことを契機に、

政党と学校の設立を急ぎます。

近代的な立憲主義の国家の建設をめざして、

政党政治の実現と

その担い手にふさわしい立憲国民の育成をはかります。


「詮するところ教育は

 個人の事業でもなければ、政府のみの事業でもない。

 国民共同の事業であるから、

 資力ある人は率先して、新島君の事業を援助されたい」

大隈はこう述べて、

同志社の創立者である新島襄への

募金運動の手助けをすることになります。


「従来、日本では女子を軽んじることが多かった。

 封建時代にはあるいはそれでよかったかもしれない。

 しかし、今日では男女複本位でなければ

 社会の進歩、文化の向上は望めない。

 今後の日本は、女子にも高等教育を授けて、

 婦人の知識を高め、

 社会の各方面でその能力を発揮させなければならない」

と、常々女子高等教育の必要性を強調していました。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(15)

2010-08-11 14:35:10 | 長崎の歴史

補足~2


大隈が長崎に出て、

フルベッキ塾で英学を学び始めたのは

文久元年(1861)頃とされています。

宣教師としてキリスト教伝道のかたわら、

塾を開いて英学を教えていたフルベッキから

世界の大勢に目を開かされました。

政局の激しい時代のなかで、

欧米の新知識が希求されていました。

大隈は新たに英学塾を開いて

若者たちを教育することを計画

長崎・五島町に「致遠館」を開きました。

恩師・フルベッキを校長に、

副島種臣(次郎)を学監に迎え、

学生数30人ほどでスタートし、

藩や階層、年齢を問わずに学生を受け入れ、

最盛期は100人を超えるほどだったといいます。

大隈は実質上の経営を行い、

また自らも英語の教鞭をとっていました。

この運営から大隈は貴重な教訓を得ます。


真の独立を達成するためには

国民の一人ひとりが独立した人格を形成することが必要で、

それには近代的な国民教育が前提だということです。

こうして「学問の独立」を理念とする

学校設立の構想を描くこととなっていくのです。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(14)

2010-08-07 15:55:12 | 長崎の歴史


補足~1


大隈重信の父保治は、

有為の才と徳があり、優れた軍学者として

特に荻野流の砲術家として名声が高かった。

しかし、嘉永3年(1850)重信が12才の時、

彼を頭に二男二女を遺して病死。

早くより亡き父を敬慕、自分も父の職を継ぎ、

父の如くなることを理想としました。

藩主鍋島直正が、

彼の英敏の才に着目、航海術を学ぶべきを勧めた時、

これを辞して、兵法の修行を願います。

藩主の命に背いても、父の業の砲術を継ごうとの希望は

学問を修めるようになってからは

砲術とは似もつかぬ道を歩むようになります。

大きな時勢の変化によるものでしょう。

父なき後の訓育は、専ら母三井子が担い

温雅鷹揚、空竹を割ったような性格ながら、

慈愛心が深く、良母でした。

一説によると、

幼時、病弱で、利発ではなかったようです。

母は熱心に神仏に祈念を凝らして、

訓育に心気を砕いたそうです。

彼が42歳の厄年のときには、

その厄除け祈願のために、

みずからつむいだ蓮の糸で京都西陣の伊達弥助に織らせ

これに育児観音を描かせたものを、

全国の有名な四十八の寺へ奉納したそうです。


当時の佐賀市長は

生家を保存すべく「大隈候記念物保存会」を組織。

旧屋敷跡300坪余りに加えて、隣接地を買収

大隈に関わる図書、写真なども収集して、

「大隈記念館」が造られます。

昭和40年(1965)生家は国の史跡に指定され、

佐賀市内の観光名所となりました。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(13)

2010-08-05 14:45:43 | 長崎の歴史


~大隈重信像~

早稲田大学早稲田キャンパスには2体の大隈像がある。

ガウン姿の立像は昭和7年(1932)創設50周年と

没後10回忌を兼ねて作られたもの。

右足を失った後の姿のものであるため、

杖をついているのが特徴である。

製作者である彫刻家の朝倉文夫は大隈像を3回制作している。

この立像は2回目のもの。

高さは298cmあり、大隈講堂の方向を向く形で設置。

また、あまり知られていない大礼服姿は

大隈講堂内にあり、

制作者は同じく朝倉文夫で1回目に制作した大隈像である。

元々は現在ガウン姿の大隈像がある位置にあったが、

大隈講堂内に移設された。

これら以外にも、他のキャンパスにも

大隈の胸像が設置されている。


国会議事堂にある大隈像は、

中央広間1階に

日本初の政党内閣を樹立した功績を称え、

板垣退助、伊藤博文とともに飾られている。

昭和13年(1938)に明治憲法発布50周年を記念して作られた。


佐賀市にある大隈記念館内にある大隈像は

昭和63年(1988)に生家跡地に建てられた。

大礼服姿の立像で、

高さは180cmあり、実際の大隈重信の身長と同じとされている。

この立像は大隈重信が右足を失う前の姿のものである。


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幕末期の長崎で活躍した人~大隈重信(12)

2010-08-02 12:45:35 | 長崎の歴史
エピソード~4


明治41年(1908)アメリカの大リーグ選抜チームと

早稲田大学野球部の試合において

大隈重信の始球式が

記録に残っている最古の始球式とされている。

大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、

ボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の1番打者が

わざと空振りをしてストライクにした。

これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、

始球式の投球をボール球でも絶好球でも

空振りをすることが慣例となった。



政治家嫌いの福沢諭吉とは、

度々雑誌での論戦に暮れていた。

ある日、雑誌の編集部が

大隈と福沢を会わせてみようと

本人達に内緒で酒宴の席を設けた。

直接相対した両者は、

酒が通ると意気投合し、

福沢から「大学を作ってみたらどうだ?」と持ちかけられて、

早稲田大学を作ったという。

また、福澤の葬儀では福澤家は献花を断っていたが、


大隈の献花に対しては、黙って受け取った。


日本初の地方遊説を行った首相でもある。

大正4年(1915)に録音された総選挙応援演説の肉声が、

平成19年(2007)に東大先端科学技術センターにより公開された。


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