古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「長與 專齋」(2)

2011-11-29 22:55:22 | 長崎の歴史



文久元年(1861)長崎に赴き、

医学伝習所にてオランダ人医師ポンペのもとで

西洋医学を修める。

その後、ポンペの後任マンフェルトに師事し、

医学教育近代化の必要性を諭される。

明治元年(1868)長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任。

明治4年(1871)岩倉遣欧使節団の一員として渡欧し、

ドイツやオランダの医学及び衛生行政を視察した。

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幕末の長崎で活躍した人~「長與 專齋」(1)

2011-11-27 08:45:24 | 長崎の歴史


長與 專齋(ながよせんさい)

天保9年(1838)~明治35年(1902)

日本の医師、医学者、官僚。

号は松香。姓は藤原、名は秉継。

肥前国大村藩に代々仕える漢方医の家系に生まれる。

大村藩の藩校である五教館で学んだ後、

安政元年(1854)大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、

やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。

のち大村藩の侍医となった。


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幕末の長崎で活躍した人~「松林 飯山」(7)

2011-11-25 12:05:20 | 長崎の歴史



 補足~1

 
「大村騒動」

 大村三十七士の盟主である家老針尾九左衛門を暴漢が襲い、

 三十七士の筆頭の松林飯山が暗殺されたことから始まりました。
 
 慶応3年正月、城内の謡初めに参加した飯山は、

 帰宅途中の午後九時頃、

 自宅を目前にして刺客に襲われます。

 袈裟の一刀でほとんど体を寸断され、即死でした。

 殺害を指揮したのは長井兵庫であるとされました。

 動機は、治振軒剣術指南役を

 渡辺昇に取って代わられた恨み、とのこと。

 一方、実行犯として、雄城直記が捕縛。

 飯山に対する嫉みといった話もありますが、

 確たる動機不明のまま獄殺。
 
 さらに、雄城が自白したとして、

 大村邦三郎、大村泰次郎は切腹。

 以降、さしたる理由もなく、

 あるいはもっともらしい理由で逮捕者は続き、

 連座を含めると50名近くが処罰されて行きます。


 粛清終了後、薩長土に対しては、

 大村三十七士の名分通り、

 大村藩は佐幕派を一掃した、としましたが、

 一方、幕府に対しては藩主大村純熈は、

 これは私闘によるものである、と報告しました。

 結果として藩論は倒幕にまとまり、

 大村藩は幕末・維新で大きな活躍をしました。

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幕末の長崎で活躍した人~「松林 飯山」(6)

2011-11-23 05:11:34 | 長崎の歴史
慶応3年正月、

大村城中で恒例の謡初式が行われたが、

自宅前まで帰ったところを長井兵庫ら

佐幕派の浪士に襲われて死去した。

「大村騒動」といわれる。

享年わずか28歳であった。

このあと大村藩の勤皇派の動きが活発になる。

慶応4年は明治元年と改元され

明治維新を迎えたのは

飯山の死去1年後の事である。

松林飯山の著述に「飯山文存」がある。

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幕末の長崎で活躍した人~「松林 飯山」(6)

2011-11-23 05:11:34 | 長崎の歴史
慶応3年正月、

大村城中で恒例の謡初式が行われたが、

自宅前まで帰ったところを長井兵庫ら

佐幕派の浪士に襲われて死去した。

「大村騒動」といわれる。

享年わずか28歳であった。

このあと大村藩の勤皇派の動きが活発になる。

慶応4年は明治元年と改元され

明治維新を迎えたのは

飯山の死去1年後の事である。

松林飯山の著述に「飯山文存」がある。

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幕末の長崎で活躍した人~「松林 飯山」(5)

2011-11-21 06:05:31 | 長崎の歴史





21歳の時、五教館の教授を拝命し

故郷の大村(長崎県)に帰った。

北海道松前藩、奥州仙台藩、関東、越前、

近畿、中国、九州諸藩の藩士らが大村に学んでいる。

土佐の岩崎弥太郎もその一人である。

文久3年(1863)26歳の時

五教館の祭主についた。

渡邉昇、楠本正隆らとともに

大村藩が倒幕へと向かう、

大村藩勤王三十七士の中心人物となった。


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幕末の長崎で活躍した人~「松林 飯山」(4)

2011-11-19 07:15:17 | 長崎の歴史





14歳の時、参勤交替に従って江戸に上がり、

安積艮斉(あさかこんさい)の塾に学んだ。

伊丹郷町に橋本香坡をたずねたのもこのころ。

香坡不在を待つうち、すっかり酩酊して帰ってきた。

「余は酔香坡なり」と自己紹介したあと、

深更にいたるまで話し合い

すっかり香坡に心酔した。

安政4年(1857)19歳の時

幕府の昌平校に入り、

ここで学才を認められて詩文係に任命された。


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幕末の長崎で活躍した人~「松林 飯山」(3)

2011-11-17 12:05:05 | 長崎の歴史


父は杏鉄(きょうてつ)といい医師であったが、

絵が好きで南画を得意とした。

五教館教授、片山歓治氏の推挙で

藩の御典医についている。

飯山は秋月藩家老から養子に望まれたが

父はこれを嫌い、

妻の郷里七釜の沖の蛎浦の中村家に隠棲した。


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幕末の長崎で活躍した人~「松林 飯山」(2)

2011-11-15 08:05:26 | 長崎の歴史



勤王の考え方を藩内に広め

同志である渡邉昇、楠本正隆らとともに

大村藩を倒幕へと導くために力をつくし、

大村藩勤王三十七士の中心人物として活躍。

慶応3年(1867)に自宅前で暗殺されます。

この事件が大村藩を勤王へ決定することとなりました。

 
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