古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~26

2012-10-30 06:05:51 | 長崎の歴史
~補足~16


絵画の勉強に関しても全く同様。

当時の学者にとっては

絵を描くことは一つのたしなみであった。

鉄斎もその例に倣って、

二十歳前後から本格的に絵画を勉強し始める。

だが、鉄斎の場合は

その幅の広さと深さがまるで違っていた。

彼は明・清の文人画、浮世絵、

雪舟や池大雅や田能村竹田など江戸時代の南画、

大和絵、狩野派や琳派などの装飾画、

大津絵などを貪欲に研究するのである。

「わしの絵は盗み絵だ」と鉄斎は言ったが、

特定の師につくこともなく、

あらゆる絵画を参考にし模写を繰り返し、

全く独自に絵画技法を追求したのである。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~25

2012-10-28 08:25:09 | 長崎の歴史
~補足~15


鉄斎は、京都で第一流の

学者や芸術家たちの塾に通い、

広範な知識を蓄積していく。

国学、漢学、陽明学、詩文、

さらには勤王思想などを深めていったのである。

またその過程で、

女流歌人としても知られていた

大田垣蓮月という尼僧を知り、

陶器作りの手伝いをするために、

一時、一緒に暮らした。

鉄斎が二十歳、蓮月が六十五歳の時のことだった。

この祖母と孫のような共同生活の中で、

鉄斎は慈悲深く謙遜な蓮月に大いに感化される。

つまり、蓮月との出会いによって、

鉄斎は人間性を深め、

真の人間の在り様みたいなものを把握したのである。

だからこそ、鉄斎は国学者であり、

儒者でありながらも、

決して偏狭な思想の中に自らを閉じ込めず、

目と心を外に向けていたのである。

それでいて学問をする中で得た人間の真実を

自らの立脚点にしていたから、

決して時流に流されるようなことはなかった。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~24

2012-10-26 04:45:31 | 長崎の歴史
~補足~14


鉄斎は同じ12月19日生まれであるのを誇りとして

「東坡同日生」の印を用い

東坡遺愛と伝える「蝉硯」や

東坡が作らせたという「東坡法墨」も所持するほどであった。

また「聚蘇書寮」という室号をつけて、

東坡の著作や関連文献を熱心に蒐集し、

中国では失われた「東坡先生年譜」も、

筆写本を秘蔵していた。


蘇東坡すなわち蘇軾(1036~1101)は

北宋を代表する文人にして官僚であり

筆禍事件で死罪の危機に瀕したかと思えば

天子側近に取り立てられ

はては政争に巻き込まれて流罪となる。 

そういう波瀾に富んだ生涯を

しかし余裕たっぷりに愉しみ

〈春宵一刻、値千金・・・・〉の「春夜詩」や


「赤壁賦」をはじめ不朽の名作を残した。

食にもこだわり

東坡肉(トンポーロー)など彼の名を冠した料理が

100種以上もあるとか。

鉄斎は、生涯にわたり東坡像を描いて

大正11年には『百東坡図』なる画集も刊行。 

同一人物で百点もの図が描けるというのも

東坡の逸話がやたらと豊富だったからであろう。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~23

2012-10-24 04:45:29 | 長崎の歴史
~補足~13


鉄斎は蔵書にどんどん手を入れた。 

愛蔵者の手垢の付いた、文字どおりの手沢本である。 

たとえば『茶話指月集』には、

利休の墓のスケッチが描き込まれている。

息子の謙蔵も父に輪をを掛けた愛書家で、

鉄斎の画がもたらす豊かな資力をバックに稀覯本を買い漁った。 

目の利く謙蔵の収集品には、

国宝『王勃集』をはじめ一級の善本が数多く含まれていたが、

親子二代で築いたこの富岡文庫も

昭和13年売り出された。

昭和期最大の売りたてといわれ、

総売上げは記録破りの15万8千円であった。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~22

2012-10-22 04:05:27 | 長崎の歴史
~補足~12


謙蔵の妻・とし子はこう書いている。

「書籍市には朝一番に駆けつけて競争相手を出し抜き、

 書店某が漢籍を買い付け帰国したと聞けば、

 公刊前に目録を見せて貰い注文してしまう。

 書物が届けば「小包の紐を解くのももどかしく、

 手に取って、目に撫で、手に撫でて後、

 おもむろに開いて繰り返し楽しむのであった。 

 そうして心ゆくまで見た上で、

 傍の蔵書印「画禅庵」の大きいのを表紙に捺したり、

 かつて陶庵公から贈られた朝鮮の五色の紙の中の紅色を

 適宜に切って、何か書いて貼り付けたり、

 書物によっては奥書きをしたりして、

 『こうしておけば子孫が困った時の売り代になる』と

 私を顧みて微笑したこともあった。

 そうして幾日か座右に置いて充分鑑賞した後、

 一応書庫に納めるのであった。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~21

2012-10-20 06:15:08 | 長崎の歴史
~補足~11


鉄斎は晩年には絹本はめったに描かず、

ほとんど紙本で描いた。 

描き方について孫が、次のように書いている。 

「紙に描く時はくるくると巻いた紙を

 先ず上のほうから二尺程延ばして描き始め、

 描き終わった部分は上に巻き込み、

 しだいに下のほうまで描いていきます。

 最初は淡墨で主要な部分を一通り描きます。

 次にまた紙の上部から、

 彩色の場合なれば薄い代緒や青い色を塗り、

 しだいに濃い墨や彩色を加えていき、

 最後に宿墨で強い調子をつけて完成するわけで、

 その間に紙を全部拡げて

 画の調子を見るということもなかったようです。 

 鐵齋が画を描くところを見ていると、

 『胸中の山水を写す』

 という言葉が本当であることが理解されます。

 祖父は画家としては速筆の人だと思いますが、

 たとえ水墨の画でも幾度も、

 筆を重ねて画に密度がありますから、

 それほど簡単にできあがるのではありません」


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~20

2012-10-18 05:25:06 | 長崎の歴史
~補足~10


鉄斎は

「私の画を見て下さるなら、

 第一に画讃から読んで貰いたい。

 私は意味のないものは描いてゐないつもりぢや」

と云っている。 

しかし、この賛文は、

専門知識が豊富な学者でも簡単には読めない。 

第一に文字が大変読み難い。 

鉄斎美術館のスタッフですら、

3日も4日もああでもないこうでもないと悩むらしい。

書き癖は年齢とともに変化し、

古字、篆書、隷書など、

様々な書体を自在に使い分けている。

しかも脱字や誤字がままあるので、

文字が読めたとて賛文を理解できるとは限らない。

原典を当たる必要があるが、

鉄斎が出典を明記している場合でも、

いざその文献を当たっても

目指す文章が見つからない事があるという。 

鉄斎が依拠した文献のほとんどは手元に蔵されていたが、

その富岡文庫も散逸し、

多くは稀覯本となっており、

研究者が見たくとも簡単には実現しない状況にある。


この状況を憂い、

鉄斎の作品の蒐集家である清荒神清澄寺の

坂本光浄和上が昭和41年山内に鉄斎研究所を創設し、

本格的賛文研究委員会を発足させた。

その成果は昭和58年までに

『鉄斎研究』として65号まで刊行され、一旦休刊。

平成元年に再開されたが、

平成8年の71号でストップしたままになっている。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~19

2012-10-16 05:25:18 | ホームページ更新
~補足~9


鉄斎は息子・謙蔵を学校へは行かさず、

自分で教育をしている。

謙蔵はやがて京都帝国大学の講師を勤めるようになり、

東洋史と金石学を教えた。

また、勤務のかたわら、

老いた鉄斎の代わりに中国を旅して書を蒐集し、

鉄斎への書画依頼の処理、

画商との事務処理に至るまで秘書役として鉄斎を助けた。

しかし大正7年(1918)謙蔵は46歳で胃癌で亡くなる。

鉄斎は老いるほど、絵に輝きを増しており、

多くの画集でみる作品の量も、

60歳代までの若描きは3割ほどで、

歳をとるほどに増え、


89歳を迎えても、鉄斎は元気そのもので

作品数は一番多い年とも云われる。

大正13年(1924)秋頃から鉄斎は

〈九十翁〉と落款するようになるが、

12月末日亡くなる。 

89歳。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~18

2012-10-14 07:25:56 | 長崎の歴史
~補足~8


明治14年(1881)兄が病死し、

病床の母の面倒をみるために、

神官を辞し、京都に帰る。 

明治23年(1890)に鉄斎の長男を騙り、

福知山や綾部のあたりまで絵の注文をとり、

集金をして逃げる詐欺師が捕縛されたという新聞記事がある。 

この事件も、鉄斎の名が津々浦々まで響いていたからだろう。


この年に京都美術協会が発足すると

55歳の鉄斎は評議員に選ばれ

そのほか展覧会の審査委員や顧問など

公職に忙しくなる。 

明治27年(1894)59歳から69歳(1904)まで

京都私立美術工芸学校の嘱託教授として講義をしている。

明治39年(1906)室町の料亭「樹の枝」で

「富岡鉄斎先生書画陳列」が開かれた。 

71歳にして初めての個展。 

明治40年には明治天皇の命として御用画の制作依頼され、

鉄斎一代の力作、

双幅「神仙高会図」「阿倍仲麻呂」を献納している。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~17

2012-10-12 04:45:23 | 長崎の歴史
~補足~7


明治9年(1876)堺県布留村の石上神社の少宮司を拝命する。

単身赴任で、経済的余裕はないながら、

同社に鏡などを献納したり、

私費で回廊の修理をしたりする。 

しかし周囲から煙たがられたようで、

意見の対立を生み、ついに辞表を提出したりするが、

ほどなく堺県大鳥村の大鳥神社の大宮司に任ぜられる。

官幣大社の大宮司に抜擢された喜びから

大鳥村に家族を呼び寄せる。

社殿を復興するため、書画を売って資金とした。 

明治10年には堺に行幸があり、

鉄斎は天皇に拝謁が叶った。

この時期、神社の復興費用捻出のための画債が

「屏風三十双近くある上、他に絹紙八百枚程が滞り」

催促を受け苦しんでいたらしい。


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